梅雨入り即大雨。「よく降りますねえ」と力なく笑うしかない。(哲




2014ソスN6ソスソス8ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 0862014

 紫陽花や私の知らぬ父がいる

                           田頭理沙

らぬ間に、紫陽花(あじさい)を目にする季節になりました。梅雨どき、青空が見えない日でも青紫の色あいを見せて楽しませてくれます。紫陽花の咲き方は突然の来訪者に似ていて、気づいたら賑やかに路傍の座を占めています。七変化、手まり花、四ひら花など、呼ばれ方も多様なところは愛でられている証しです。作者田頭さんは、当時愛媛県伯方高校の二年生。父親との距離は微妙な多感な時期です。それゆえ句は切れていて、スーッと入ってきて、サッパリとした読後感があります。一般的に、父と娘は包み包まれる関係から出発します。娘からすれば父に従属している関係で、それは、父親という大きな揺り籠に抱かれているような揺籃期です。しかし、思春期に入ると、娘は揺り籠から外に出て、父親を距離のある他者として捉えはじめます。つまり、親子関係から、人生の先輩と後輩の関係へ、または、最も身近な男性として観察の対象となっていく時期にさしかかります。子どもが成長するときは、知らなかった経験をするときですが、田頭さんは、父を通して未知の社会と性差を感受しているのではないでしょうか。それは、紫陽花が七変化するように自身を幻惑させています。同時にそれは、私の知らぬ私との出会いでもあるでしょう。紫陽花は、思春期のとまどいを象徴する花として、人生の初夏に向かって生きる青春を詠んでいます。「私の知らぬ」で切れているところに、娘と父の距離が示されています。『17音の青春 2012』所載。(小笠原高志)


June 0762014

 蛇のあとしづかに草の立ち直る

                           邊見京子

どもの頃は夏になると青大将が道を横切るのが当たり前だったが、長じてからは数えるほどしか出会っていない蛇。先日都内の庭園で後ろから、そっちへ今行くと蛇がいますよ、と声をかけられ、ありがとうございます、と走って行き久々遭遇したが、変な人と思われたに違いない。夏草の茂っている中で蛇に会った記憶はそうないが、いつも去っていく気配を見送るという感じだった。この句の作者も、そんな蛇の後姿をしばらく見ていたのだろう。たった今蛇が通った跡の草は蛇の進んだ方向へやや傾ぎながら倒れている。さらに見ていると、一瞬の強い力で踏まれたのとは違い、草はすぐしなやかに立ち直って風に揺れ始める。作者の視線もまた、確かでありしづかである。『俳句歳時記・夏(第四版)』(2007・角川書店)所載。(今井肖子)


June 0662014

 美しやさくらんぼうも夜の雨も

                           波多野爽波

置法である。本来ならば、「さくらんぼうも夜の雨も美しや」となるところである。爽波は、まず、「美しや」と主観を強調する。さくらんぼのつやつやした美しさはもちろんのことだが、夜の雨が美しいというのは、個性的な感覚を感じさせる。土砂降りではなく、しとしとと、降っていたのであろう。「……も……も」の繰り返し表現が、ぽたぽた落ちる雨だれのようにひびいてくる。『湯呑』(昭和56年)所収。(中岡毅雄)




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