2014ソスN6ソスソス3ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 0362014

 風薫るこれからといふ人生に

                           今橋眞理子

薫るとは、青葉若葉を吹き抜けるすがすがしい季語である。初夏の茶席によく掛けられる軸「薫風自南来」の出典は皇帝と詩人のやりとりのなかで生まれた漢詩だが、のちに禅語として取り上げられたことで、一層の涼味が加わった。黒々とした字配りと禅語風の「くんぷーじなんらい」という調子は、目にし、口にするだけで執着やわだかまりから解放されるような心地になる。掲句はこれから新しい一歩を踏み出す背中へ向けたエールである。この世の美しいものだけに触れながら通う風は、光りに満ち、未来に向かって吹き渡るのにもっともふさわしいものだろう。日々のなかで悩んだり、迷ったりしても、風薫る季節がいつでも初心を思い出させてくれる。本書のあとがきに「偶然が意味を持つ時、それは運命となる」とある。運命の扉はいつでも開かれるのを待っている。『風薫る』(2014)所収。(土肥あき子)


June 0262014

 国家とは国益とはと草を引く

                           大元祐子

二次安倍内閣になってから、やたらと「国家」「国益」の文字を目にするようになった。政治家が「国家」「国益」を考えるのは当然だが、安倍内閣の場合は、ことさらに危機感を煽りつつ喧伝するので始末が悪い。草を引きながらも「国家」「国益」とは何かと、つい自問してしまうほどである。とはいっても、作者はここでその回答を求めているのではないだろう。引いても引いても生えてくる雑草のように、この自問が繰り返し現れてきてしまうというわけだ。つまり、草取りのような労働にあって、同じように果てしのない回答なしの自問を繰り返すとき、草取りという労働のルーティン・ワーク性がより鮮明になってくるのである。子供の頃の畑の草取りは辛かった。そんな私がこの句を読むと、暑い日差しに焼かれながら、いつも回答のない自問を繰り返していたことを思い出す。『新現代俳句最前線』(2014)所載。(清水哲男)


June 0162014

 麦刈りのあとうすうすと二日月

                           正木ゆう子

西欧は麦の文化で、東洋は米の文化。これは、乾燥した気候と湿潤な気候風土によって形成された食文化の違いでしょう。麦は畑作で、米は水田耕作。田んぼは水を引くので、保水地帯として森を残しておく必要があり、これが生態系に配慮された里山を形作っていました。一方、麦畑はそれほど保水を必要としないので、森を切り開いて畑を拡大していきました。産業革命以降、西欧の農地がすばやく工場に転換できた理由の一つは畑作だったからであるという考え方があり、一理あるかなとも思います。現在、小麦の国内自給率は10%台で、生産地は西欧の気候に似た北海道が中心となっています。さて本題。掲句の舞台はわかりませんが、広大な麦畑を空へと広げて読めそうです。「麦刈りのあと」なので、刈られる前と後の光景を比較できます。刈られる前、麦は子どもの背の高さくらいまで実っていたのに、刈られた後は根元が残っているだけ。しかし、刈られた後には何もない広大な空間が生まれました。空間が広がったぶん、二日月は、より一層研ぎ澄まされて鎌の刃のような鋭い細身を見せています。それは、かつて鎌が麦の刈り取りに使われていたことを暗示していて、麦が刈り取られてできた地上の空間の上に、鎌の刃のような二日月が空に輝く光景は、超現実主義の絵画のようです。暖色系の色合いも含めて「菜の花や月は東に日は西に」(蕪村)に通じる地上から天上にわたる実景ですが、一面の菜の花とは違って、刈り取られた空間と二日月には、欠落した美を創出しようとする作者の意図があると読みました。そう思って読み返すと、「うすうす」が効いています。『夏至』(2009)所収。(小笠原高志)




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