ラジオのパーソナリティに顕著だが、無意味な笑い声が多すぎる。(哲




2014ソスN5ソスソス26ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 2652014

 谷の奥妻の木苺熟るるころ

                           矢島渚男

苺には園芸用もあるが、私が子供の頃に接したのは野生種だった。まさに「谷の奥」に自生していた。おやつなど考えられない食料難時代の山の子には、自然が与えてくれた極上のおやつであったから、学校からの帰途、空の弁当箱にいっぱい獲るのが初夏の楽しみなのだった。欲張ってぎゅうぎゅうに詰め過ぎて、実がつぶれたものは不味かったが、とにかくこのころに食べた木苺の味は、いまでも図鑑の写真を見ただけでも思い出すことができる。句の「妻の木苺」で思い出したのは、子供仲間の間には、それぞれが(勝手に)所有しているつもりの木があって、子供なりの仁義で他人の木苺に手を出さないという暗黙の了解があったのだった。「妻の木苺」にはそれほどの切実な意味はないのだろうが、遠い日に二人で出かけた地の「谷の奥」で妻が見つけて、分け合って食べた木苺の甘酸っぱい味がよみがえってくるような措辞である。初夏の木漏れ日も、きっと目にまぶしかっただろう。そんな日の木苺の様子を思い出し、同時にその当時の生活のあれこれを、いま作者は微笑とともに思い返しているのだ。もはやあの日がかえってくることはないけれど、もしかすると「幸福」とは、あのときのような状態を指すのかもしれない。と、これは読者としての私が、この句につけた甘酸っぱい味である。『百済野』(1997)所収。(清水哲男)


May 2552014

 すりこ木で叩いて胡瓜一夜漬

                           長谷川櫂

理のよしあしは、ひと工夫で決まるもの。胡瓜を叩くひと手間で、たしかに味は変わりそう。台所に立つことを趣味とし、5枚のエプロンを着こなすこの身で、掲句のやり方を実行してみました。ゴマすり用の20cmほどのすりこ木を右手に持ち、まな板の上に胡瓜を置いて叩き始めます。叩いてみると胡瓜は案外硬く、一度や二度では全く変化はありません。五十回ほど万遍なく叩いて触ってみると、すこし柔らかくなっていますが、まだまだ外側はしっかりしていて、もっと叩いてやわらかくしていいよ、と胡瓜が言っているようにも思われてきて、結局、百回ほど叩いて、指で押すとすこしへこむくらいの柔らかさになりました。これはもう、ひと手間どころではないぞと思いつつも、すりこ木で胡瓜を叩く動作はなかなか楽しく、また、やや鈍く響く音は最近聞かれない類いの生活音で、約10分間ほど、三本の胡瓜を叩くこと三百回、それぞれを半分に切って塩をふり瓶詰めにしました。ただし、胡瓜はもう一本あって、それはあえて叩かず瓶詰めにし、翌日比較してみることにしました。差は歴然。叩いていない胡瓜は、きれいに切れますが歯ごたえが硬く、味もしみていません。一方、叩いた胡瓜は柔らかく、口の中でほぐれ、胡瓜の青くささに適度な塩味がしみ込んだ味わいです。料理作りと直結している五七五をもっと知りたくなりました。『鶯』(2011)所収。(小笠原高志)


May 2452014

 鎧戸の影白靴を放り出す

                           内村恭子

の鎧戸は、掃き出し窓のようなところの鎧戸だろう。休暇中の作者は本を読むのにもちょっと飽きて、目の前の海まで散歩に行こうかと立ち上がる。鎧戸の影は縞々、そこに白靴をぽんと投げると、白靴にも縞々の影ができる。ただそれだけなのだが、白靴の一つの表情に小さな詩が生まれていることに気づく作者なのだろう。鎧戸と白靴という二つの素材が、作為の無い景としてくっきりと切り取られている。同じ句集『女神』(2013)に<白靴を踏まれ汚れただけのこと>という句もある。美しい眉をひそめて相当むっとしている作者の様子が目に浮かぶが、お気に入りの白靴があるのかもしれない。(今井肖子)




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