暑いのかそうでもないのか、よくわからない日がつづく。(哲




2014ソスN5ソスソス14ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 1452014

 地球儀のあをきひかりの五月来ぬ

                           木下夕爾

の開花→満開→花吹雪、桜前線北上などと、誰もが桜にすっかり追いまわされた四月。その花騒動がようやくおさまると、追いかけるように若葉と新緑が萌える五月到来である。俳句には多く「五月かな」とか「五月来ぬ」「五月来る」と詠まれてきた。世間には一部「五月病」なる病いもあるけれど、まあ、誰にとっても気持ちが晴ればれとする、うれしい季節と言っていいだろう。「少年の素足吸ひつく五月の巌」(草間時彦)という句が思い出される。最近の新聞のアンケート結果で、「青」が最も好まれる色としてランクされていた。「知的で神秘的なイメージがあり、理性や洗練を表現できる」という。世界初の宇宙飛行士ガガーリンの「地球は青かった」という名文句があったけれど、地球儀だって見方によって、風薫る五月には青く輝いて見えるにちがいない。地球儀が青い光を発しているというわけではないが、外の青葉若葉が地球儀に映っているのかも知れない。ここは作者の五月の清新な心が、知的な青い光を発見しているのであろう。夕爾は他にも、地球儀をこんなふうに繊細に詠んでいる。「地球儀のうしろの夜の秋の闇」。『全季俳句歳時記』(2013)所収。(八木忠栄)


May 1352014

 綿津見の鳥居へ卯浪また卯浪

                           藤埜まさ志

波とは陰暦四月、卯月の波のことだが、決して静かな波ではなく、晩春から初夏にかけての低気圧によって立つ白波をいう。綿津見(わたつみ)に立つ鳥居といえば、まよわず宮島の大鳥居が浮かぶ。淡々と景色を写生した掲句だが、口にすればたちまち海の深い青、続けざまに寄せる波頭の白、そして鳥居の朱色が眼前に立ち現れる。それは合戦の昔から図絵に描かれた景色であり、また世界文化遺産となって残る今日の景色でもある。目にも鮮やかな鳥居の朱色は邪気を祓うと同時に、丹を塗ることで腐食も防ぐという実利も兼ね備えていた。先人の知恵と工夫が日本人の美意識として引き継がれ、またそれを言葉にして愛でることができる喜びが潮のように胸に満ちる。『火群』(2014)所収。(土肥あき子)


May 1252014

 田を植ゑてゐるうれしさの信濃空

                           矢島渚男

濃川流域に広がる田園風景をはじめて見たときには、心底衝撃を受けた。旅の途中の列車の窓からだったが、どこまでもつづく広大な田圃に、故郷山口のそれとは比較にならないスケールに圧倒されたのだった。私が子どもの頃に慣れ親しんだ田圃は、信州のそれに比べれば、ほんの水たまりみたいなものだった。千枚田とまではいかないが、山の斜面に張りついた小さな田圃になじんだ目からすると、その広がりに眩暈を覚えるほどであった。と同時にすぐに湧いてきた思いは、農家の子の悲しき性で、この広い田圃の田植や収穫の労働は大変だろうなということでもあった。そんなわけで、この句を前にした私の気分は少し複雑だ。「植ゑてゐる」のは自分ではあるまい。作者は、広大な田圃ではじまった田植を遠望している。反対に、私の田舎の田植は遠望できない。植えている人に声をかければ、届く距離だ。したがって、田植を見る目には、空が意識されることはない。目の前は、いつも山の壁なのである。私には句の「うれしさ」を満々と反映している信濃の空のありようは想像できるけれど、想像すると少し寂しくなる。腰を折り曲げての辛い労働に、すかっと抜ける空があるのとないのとでは大違いだなあ。そんなことを思ってしまうからである。『采薇』(1973)所収。(清水哲男)




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