超厳戒態勢下にアメリカ大統領来日。過剰警備の弊が出ぬとよいが。(哲




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April 2342014

 ゆく春やあまき切手の舌ざはり

                           吉岡 実

句のシロートには「ゆく春や」で、何十句も出来そうな気がしないでもない。いっちょうやってみるか……冗談はよせよせ。切手は糊や水を用いるなど、一定の貼り方があるわけだが、舌でぺろりとなめてぺたんと貼るーーこれが一番いいと私は思うし、実践している。気取っていなくて手っ取り早い。お行儀は悪いけれど、不潔でしょうか? 切手の糊はもちろん「あまい」わけではないが、手紙の内容によっては「にがい」場合もあるだろう。晩春のころに、誰に出す手紙かは知らないけれど、行く春をそっと惜しむうっすらとした感傷のこころが読みとれる。同時にいい加減な手紙ではなく、気持ちのこもった手紙であろうと想像される。「あまき」を味ではなく、下五「舌ざはり」と受けたところに、吉岡実の抜群の感性がみごとに生かされている。あの鋭い目つきの詩人が、切手をぺろりとなめている図に強い興味をおぼえる。とりわけメイルやファックスなどがなかった時代のことを、考えさせてくれる傑作である。参考までに、吉岡実にはこんな短歌があるーー「舌ざはり惜しみ白き封筒に火蛾の情慾を入れて貼り投凾す」。先ほど82円と52円の切手をなめてみたが、決して「あまく」はない。吉岡実には春の句が多い。「人形の胸ひややかにゆく春や」「春愁や瞼のうらのなまぬるき」。『赤鴉』(2002)所収。(八木忠栄)


April 2242014

 足跡の中を歩いてあたたかし

                           高橋雅世

跡が見えるということはアスファルトなど都会の道路ではないようだ。土に刻まれた足跡には、雑踏に感じる圧迫感と異なり、かすかな気配だけが残される。この道を自分よりほかに同じように歩いた人がいる。あるいは人ではなく、動物のものかもしれない。見ず知らず同士の生活の軌跡が一瞬ふと触れ合う。あたたかな日差しに包まれ、現在と過去が交錯する瞬間、記された足跡のひとつひとつから体温のぬくもりが発しているように思われる。掲句では足跡(あしあと)と読ませると思うが、足跡(そくせき)とも読むことを思うと、意味は一層深くなる。〈林から飛び出してゐる木の芽かな〉〈横顔のうぐひす餅をつまみたる〉『月光の街』(2014)所収。(土肥あき子)


April 2142014

 車椅子まなこ閉じれば春が消え

                           有山兎歩

の三年ほどで徐々に歩行が困難になってきて、このままでは車椅子の世話になりそうだなと思っている。そうなったときの状態をいろいろと想像はしてみるのだが、しかし想像と実際とでは、必ずや大きくかけ離れた部分が出てくるだろう。作者は入院先で、車椅子生活を余儀なくされた。句意は解釈するまでもないだろうが、ここで私などが驚かされるのは、「まなこ閉じれば春が消え」という単純な事実に対してである。目をつぶれば何も見えなくなる。当たり前だ。しかし、私たちの文学的表現にあっては、目を閉じるからこそ何かが見えてくると言ってきた。長谷川伸の『瞼の母』ではないが、実の母親に邪険にされても、番場の忠太郎にはいつだって「優しかったころの母の姿」が、瞼を閉じさえすれば見えてくるのだった、というふうに…。車椅子利用者は、歩行の自由を失った人だ。そうした人が歩行の自由を夢見るかというと、そういうことはないのだと、掲句は告げているのだと思う。忠太郎は母を恋うているから見えるのだし、作者は歩行の自由を諦めているから何も見えないのである。つまり瞼を閉じて何かが見えるか見えないかは、その対象に対して諦念を持つかどうかに関わっていて、歩行不可能者が歩行を諦めるのは、いつまでもこだわっていては生きていけないからである。春が楽しいと思えるのは、野山を自由に歩き回れる健常者だけの謂であり、私たちの周囲には、そうした春を諦めた多くの人々が存在することを知るべきだろう。『有山兎歩遺句集』(2014)所収。(清水哲男)




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