今日は昔のラジオ仲間が私の喜寿を祝う席を設けてくれています。(哲




2014ソスN3ソスソス15ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

March 1532014

 貝殻に溜れる雨も涅槃かな

                           細見綾子

日は陰暦二月十五日、釈迦入滅の日、涅槃にあたる。数年前の三月の京都、二時間ほどの旅程の隙間にぶらりと入った古いお寺の涅槃図を思い出す。涅槃会で掲げられているのを大勢の人と見るのとはまた違い、薄暗い本堂の奥で一人で見る涅槃図は、信心深いとは言えない身にも大きな何かを感じさせるものだった。掲出句は、明日涅槃、という項にある一句。海岸を散歩していると貝殻に水が溜まっている。それが海水ではなく昨夜の雨水であると気づいたとき、涅槃会の供物「測り知ることのできない大きな広いものへの供物」であると感じたという。それが、雨も、の一語となったのだろう。高々と輝いてた月も涅槃図の中の印象深いものの一つ、今宵そろそろ育ってきた月が眺められるだろうか。『武蔵野歳時記』(1996・東京新聞出版局)所載。(今井肖子)


March 1432014

 吾を容れて羽ばたくごとし春の山

                           波多野爽波

の山は笑うというが、温かなイメージがある。山に登っていくと、まるで、山が羽ばたいているような気がした。この句には、二つの鑑賞のポイントがある。一つ目のポイントは、上五「吾を容れて」という表現。「吾登り」などとしてしまうと、一句のイメージが損なわれてしまう。「容れて」の部分から、山に抱擁されているかのごとき臨場感が生まれてくる。二つ目のポイントは、「羽ばたくごとし」という飛躍した比喩表現にある。春の山が巨大な鳥であるかのように感じさせる。『湯呑』(昭和56年)所収。(中岡毅雄)


March 1332014

 くちびると背中合わせの椿かな

                           男波弘志

つも散歩に行く近くの公園にようやく椿が咲き始めた。「背中合わせ」は二人が後ろ向きに背と背を合わせること。そこから転じて二つのものが反対向きに接している意、二つの物事が表裏の関係にあることともとれる。肉厚な椿の花とくちびる、真っ先に連想するのは濃い赤色だ。くちびると椿の間に「背中合わせ」という言葉を置いたことで唇の後ろ側に椿が咲いているような不思議な感じがする。また、くちびると椿の間に男がいるとすると、その立ち位置は。等々くちびると椿の関係についてエロっぽい想像をめぐらしてしまった。『瀉瓶』(2014)所収。(三宅やよい)




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