暖かくなって、やれ嬉しやと思っていたら、週末には寒の戻りとか。(哲




2014ソスN2ソスソス26ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

February 2622014

 春寒し荒海に入る川一つ

                           安藤一郎

の上で立春は過ぎても、春にはまだ寒さが残っているし、都心でさえ雪が降る。「春寒」も「余寒」も似ているけれど、「春寒」は寒さよりも春の方にウエイトがかかっていて、同じ春の寒さにも微妙なちがいがある。そこに俳句の生命がある。掲句における「海」や「川」は、具体的にどこの海や川を指しているのかわからないが、「荒海」だから北のほうの海だろう。まだ寒さは残っているけれど、ようやく春をむかえていくぶん海の冷たさもやわらぎ、そこへ春の川が地上の春をからめて流れこんでいる、といった図である。この句によってたいていの人は、芭蕉が『おくのほそ道』の酒田で詠んだ句「暑き日を海にいれたり最上川」を想起するにちがいない。いや、作者の頭にも季節はちがうけれど、この句があったとも推測される。芭蕉の句は「日本海」と「最上川」が具体的に見えていて際立っている。それに比べると掲句は漠然としている分弱いように思う。英文学者だった一郎は、村野四郎や北園克衛ら何人かの詩人たちと、昭和十年代に句誌「風流陣」のメンバーだった。一郎の句は他に「摘草の菫しをるゝ疲れかな」がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


February 2522014

 蕗の薹空が面白うてならぬ

                           仲 寒蟬

の間から顔を出す蕗の薹。薹とは花茎を意味し、根元から摘みとっては天ぷらや蕗味噌にしてほろ苦い早春の味覚を楽しむ。穴から出た熊が最初に食べるといわれ、長い冬眠から覚めたばかりで感覚が鈍っている体を覚醒させ、胃腸の働きを整える理にかなった行動だという。とはいえ、蕗の薹は数日のうちにたちまち花が咲き、茎が伸びてしまうので、早春の味を楽しめるのはわずかな期間である。なまじ蕾が美味だけに、このあっという間に薹が立ってしまうことが惜しくてならない。しかし、それは人間の言い分だ。冴え返る早春の地にあえて萌え出る蕗の薹にもそれなりの理由がある。地中でうずくまっているより、空の青色や、流れる雲を見ていたいのだ。苞を脱ぎ捨て、花開く様子が、ぽかんと空にみとれているように見えてくる。〈行き過ぎてから初蝶と気付きけり〉〈つばくらめこんな山奥にも塾が〉『巨石文明』(2014)所収。(土肥あき子)


February 2422014

 麗らかに捨てたるものを惜しみけり

                           矢島渚男

乏性と言うのだろう。なかなか物を捨てることができない。押し入れを開けると、たとえばオーディオ機器のコードの類いがぎっしりと詰まったビニール袋があったりする。さすがに壊れてしまった本体は処分してあるのだが、コードなどはまたいつか使うこともあろうかと、大事にとってあるのだ。が、ときどき袋のなかから適当に拾い出して見てみると、もはやどういう機器に使うためのコードなのかがさっぱり分からなくなっている。それでもやはり、断線しているわけではないはずだからと、とにかくまた袋に戻しておくことになってしまう。そんな私でも、この句が分かるような気がするのは不思議だ。いや、そんな私だからこそ分かるのかもしれない。作者が何を捨てたのかは知らないが、それを惜しむにあたって、「麗らかに」という気分になっている。これは一種の論理矛盾であって、惜しむのだったら捨てなければよいところだ。でも、思い切って捨てたのだ。そうしたら、なにか心地よい麗らかな気分がわいてきた。あたかも時は春である。この気分は、人間の所有欲などをはるかに越えて、作者の存在を大きく包み込んでいる。つまり、この句は人間の我欲を離れたところに存在できた素晴らしさを詠んでいる。捨てたことに一抹の寂しさを残しながらも、自分をとりまく自然界に溶けてゆくような一体感を得た愉しさ。これに勝るものは無しという境地……。『船のやうに』所収。(清水哲男)




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