ベアに応じる企業がどれくらいあるか。今年の春闘は見ものだ。(哲




2014ソスN2ソスソス6ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

February 0622014

 流氷が見たくて飴を舐めてをり

                           喜田進次

年も流氷が確認されたと、ニュースでやっていたが接岸はいつだろう。本物の流氷はまだみたことはなくて思い浮かぶのはテレビドラマ「北の国から」で消息不明になったトド撃ちに扮した唐十郎が流氷を渡って港へ帰って来るシーンだ。流氷って人が乗っても大丈夫なんだろうか、トドやあざらしは流氷に乗って旅するんだろうか。流氷ははるか北への旅情をかきたてる。舌の上になま温かく飴を転がす感触とオホーツク海から来る固く冷たい流氷。距離感と質感ともに対照的な二物の取り合わせが魅力的で、私も飴を舐めながら流氷を待ってみたい。『進次』(2012)所収。(三宅やよい)


February 0522014

 ひらがなの筆跡で舞う細雪

                           葛西 洌

(俳号:洌浪)は青森市に生まれ、三十五歳頃まで青森県で過ごしていたから、その地に降っている雪のことを詠んでいるのかもしれない。「細雪」は書いて字のごとく細かい雪である。雪には綿雪・牡丹雪・粉雪・細雪など、気温や土地によってさまざまな結晶の仕方があり、形状もいろいろであることは言うまでもない。「ひらがなの筆跡」のたとえはきれいだ。そのように細かく、途切れることなく、軽く繊細にしなやかに「舞う」とうわけである。漢字のようにどっしりして、またカタカナのようにきらびやかでトゲトゲしい雪ではない。洌がひらがなにこだわった詩がある。その一節に「ひらがなでもの想う日は/もっと遠くを見ていたい//遠くを見るということは/さらにその先に続く道があり/道の先は/ひらがなの筆跡のように切れることがない/……」(「もっと遠い所」)とある。彼は「ひらがな」という語に心とらわれていた時期があったらしい。他に「ひらがなでもの想う朝梅実る」がある。2013年に七十六歳で亡くなった。「長帽子」75号(2013)所載。(八木忠栄)


February 0422014

 手を振れば手を振る人のゐて立春

                           佐怒賀直美

ち合せ場所に相手の姿を見つけて大きく振る手には喜びがあふれ、別れ際に振る手には名残惜しさが込められる。どちらも同じ動作だが、掲句の「立春」の溌剌とした語感は、ものごとの始まりを思わせ、若々しいふたりの姿が浮かび上がる。古来から「領巾(ひれ)振る」や「魂(たま)振り」などの言葉があるように、なにかを振ることは相手の視覚にうったえる動作であるとともに、空気を振動させ神の加護を祈ったり、相手の魂を引き寄せたりする意味も持つ。まばゆい早春の光のなかで交わされた合図は、まるで春を招く仕草にも見えてくる。春は名のみの凍えるような日のなかで、今朝からの「いってらっしゃい」は、春の女神へも届くように、いつもより大きく振ってみよう。「塔・第9巻」(2014)所載。(土肥あき子)




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