立春です。「春」です。東京地方の天気予報に「雪」マークです。(哲




2014ソスN2ソスソス4ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

February 0422014

 手を振れば手を振る人のゐて立春

                           佐怒賀直美

ち合せ場所に相手の姿を見つけて大きく振る手には喜びがあふれ、別れ際に振る手には名残惜しさが込められる。どちらも同じ動作だが、掲句の「立春」の溌剌とした語感は、ものごとの始まりを思わせ、若々しいふたりの姿が浮かび上がる。古来から「領巾(ひれ)振る」や「魂(たま)振り」などの言葉があるように、なにかを振ることは相手の視覚にうったえる動作であるとともに、空気を振動させ神の加護を祈ったり、相手の魂を引き寄せたりする意味も持つ。まばゆい早春の光のなかで交わされた合図は、まるで春を招く仕草にも見えてくる。春は名のみの凍えるような日のなかで、今朝からの「いってらっしゃい」は、春の女神へも届くように、いつもより大きく振ってみよう。「塔・第9巻」(2014)所載。(土肥あき子)


February 0322014

 わが里の春めく言葉たあくらたあ

                           矢島渚男

あ、わからない。「たあくらたあ」とは、何だろう。作者が在住する信州の方言であることは句から知れるが、発音も意味もまったくわからない。そこをむりやり解読して、私は最初「食った食った、たらふく食った」の意味にとってしまった。「くらた」を「喰らった」と読んだのである。ところが調べてみると、大間違い。柳田国男に「たくらた考」なる一文があり、「田藏田」とも書いて、「麝香(ジャコウ)といふ鹿と形のよく似た獣だったといふ(中略)田藏田には香りがないので捕っても捨ててしまふ。だから無益に事件のまん中に出て来て殺されてしまふ者」とある。信州では「馬鹿者」とか 「オッチョコチョイ」「ショウガネエヤツ」「ノンキモノ」などを、いささかの愛情を込めて「コノ、たあくらたあ」などと言うそうだ。「たらふく食った」などと頓珍漢な解釈をした私のほうが、それこそ「たあくらたあ」だったというわけである。句の「春めく言葉」というのは、「たあくらたあ」と言う相手にこちらが愛情を感じている言葉だからだ。その暖かさを良しとして、「春めく」と言っている。そしてこの句からわかるのは、そうした句意だけのことではない。いちばん好感が持てるのは、この句を詠んだときの作者がきわめて上機嫌なことがうかがえる点である。春は、もうそこまで来ている。「梟」(2011年3月号)所載。(清水哲男)


February 0222014

 火に焚くやむかしの戀も文殻も

                           戸板康二

殻は、読み終わった古い手紙です。「穀」が実のある状態なのに対して、「殻」は抜け殻です。だから、この焚き火はよく燃えている情景です。「むかしの戀」が情を吐露しているので、下五には即物的な素材を用いたのでしょう。したがって、「戀」の字も旧字体でなければなりません。言霊で糸と糸とをつなごうとする心が戀であるならば、終わってしまったむかしのそれは心に絡みついたり固結びになっていて、もうほどけません。むかしの自分を成仏させるためにも、抜け殻は火に焚く必要があります。掲句は、過去の自分の告別式をモチーフにした、脱皮と再生の儀式と読みます。『袖机』(1989)所収。(小笠原高志)




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