February 032014
わが里の春めく言葉たあくらたあ
矢島渚男
さあ、わからない。「たあくらたあ」とは、何だろう。作者が在住する信州の方言であることは句から知れるが、発音も意味もまったくわからない。そこをむりやり解読して、私は最初「食った食った、たらふく食った」の意味にとってしまった。「くらた」を「喰らった」と読んだのである。ところが調べてみると、大間違い。柳田国男に「たくらた考」なる一文があり、「田藏田」とも書いて、「麝香(ジャコウ)といふ鹿と形のよく似た獣だったといふ(中略)田藏田には香りがないので捕っても捨ててしまふ。だから無益に事件のまん中に出て来て殺されてしまふ者」とある。信州では「馬鹿者」とか 「オッチョコチョイ」「ショウガネエヤツ」「ノンキモノ」などを、いささかの愛情を込めて「コノ、たあくらたあ」などと言うそうだ。「たらふく食った」などと頓珍漢な解釈をした私のほうが、それこそ「たあくらたあ」だったというわけである。句の「春めく言葉」というのは、「たあくらたあ」と言う相手にこちらが愛情を感じている言葉だからだ。その暖かさを良しとして、「春めく」と言っている。そしてこの句からわかるのは、そうした句意だけのことではない。いちばん好感が持てるのは、この句を詠んだときの作者がきわめて上機嫌なことがうかがえる点である。春は、もうそこまで来ている。「梟」(2011年3月号)所載。(清水哲男)
February 022014
火に焚くやむかしの戀も文殻も
戸板康二
文殻は、読み終わった古い手紙です。「穀」が実のある状態なのに対して、「殻」は抜け殻です。だから、この焚き火はよく燃えている情景です。「むかしの戀」が情を吐露しているので、下五には即物的な素材を用いたのでしょう。したがって、「戀」の字も旧字体でなければなりません。言霊で糸と糸とをつなごうとする心が戀であるならば、終わってしまったむかしのそれは心に絡みついたり固結びになっていて、もうほどけません。むかしの自分を成仏させるためにも、抜け殻は火に焚く必要があります。掲句は、過去の自分の告別式をモチーフにした、脱皮と再生の儀式と読みます。『袖机』(1989)所収。(小笠原高志)
February 012014
雪が来る耳のきれいな子どもたち
大島雄作
この句を読んでふと浮かんだのは、バレエや体操などをしている少女のお団子ヘア、正式に何と呼ぶのかわからないが、近くの駅でよく見かける少女たちの姿だ。練習の行き帰り、彼女らの服装はまちまちだが、このヘアスタイルはおそろいである。時折笑い声をあげながら電車を待っているその声も表情もあどけない彼女たちがふと見せるきりりとした横顔。てっぺんのお団子に向かう髪の直線と、細い首から顎にかけての曲線、そのシンプルなラインの真ん中にある複雑な形の耳の存在をあらためて認識した。雪催の灰色の空の下、白い息を吐きながら笑い合う少女たちのむき出しの耳の清々しさとヒトらしいうつくしさはまさに、きれい、なのだろう。『春風』(2013)所収。(今井肖子)
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