田中将大が普通のローテで登板するとして、一球70万円の計算に。(哲




2014ソスN1ソスソス24ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 2412014

 畳まれて巌のごとし大屏風

                           波多野爽波

段、屏風というのは広げて用いるもの。しかし、作者は、畳まれている屏風を詠んでいる。「巌のごとし」というのは飛躍した比喩であるけれども、大きな屏風の質感をよく感じさせる。私は、この句が出された句会に出席していた記憶があるが、同時作に「井戸の辺をすり抜け屏風運ばるる」という作品があった。爽波は、句会の後、「頭の中で、『屏風』を思い浮かべていると、その映像が自然に動き始め、さまざまな情景が浮かんでくる」と語っていた。『骰子』(1986)所収。(中岡毅雄)


January 2312014

 地吹雪や嘘をつかない人が来る

                           大口元通

とはあまり縁のない土地で育ったせいで、吹雪の中を歩いた経験はない。「素人が吹雪の芯へ出てゆくと」と櫂未知子の句にあるように、方向さへ見失う吹雪は恐ろしいものだろう。では吹雪と地吹雪はどこが違うのだろう?手元の歳時記を引くと「地吹雪は地上に積もった雪が風で吹き上げられること。地を這うような地吹雪と天を覆うまで高く吹き上げられる地吹雪がある」と説明されている。天から降ってくる雪ではなくて、風が主体になるのだろうか。逆巻きながら雪を吹き上げる風の中、身をかがめ一歩一歩足元を確かめながら歩いてくる人、「嘘をつかない人」だから身体に重しが入って飛ばされないというのか、。誇張された表現が地吹雪を来る人の歩み方まで想像させる。ならば嘘つきは軽々と地吹雪に飛ばされてしまうのか、子供のとき読んだ「ほら吹き男爵」の話を思い出してしまった『豊葦原』(2012)所収。(三宅やよい)


January 2212014

 二十のテレビにスタートダッシュの黒人ばかり

                           金子兜太

の量販店のフロアーなら二十のテレビどころの数ではないから、これは街角の電気店の風景。ふと足を止めた視線の先に、スタートの位置に身を屈める黒人の姿が映し出された二十のテレビ画面がある。この句は俳句を作る上で一般的に避けるべきとされるさまざまなタブーを破っている。まず無季句であること。字余りであること。スタートダッシュという長い名詞を用い、しかもカタカナ語が二語出てくること。テレビを通して観る対象だから、間接的な把握になること等々。それら従来の作句方法の「要件」を歯牙にもかけず、(それら一つ一つに「挑戦する意識」があったらとてもこれだけまとめての掟破りはできない)とにかく作者の感じた「現在只今」が優先される。街角も、観ている側も、映し出されている画像も、二十のテレビそのものも、全てひっくるめて状況そのもの。このとき読むものはそこにまぎれもなく呼吸して動いている作者を見出すのである。『暗緑地誌』(1972)所収。(今井 聖)




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