暮れてゆきますね。来る年が皆様にとって佳い年でありますよう。(哲




2013ソスN12ソスソス31ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 31122013

 掛け替へし大注連縄の匂ひけり

                           小西和子

年末、出雲大社の神楽殿の大注連縄が掛け替えられたが、長さ13m、重さ5トン。最後はクレーン車に力を借りながら、大人30人ほどが大蛇の腹にまといつくようにして縒り合わせていた。6〜7年に一度という出雲大社は別として、神社の注連縄は毎年氏子が力を合わせて作り、掛け替えられるものだ。注連縄はその年に収穫された新藁で作られ、一本一本適した藁しべを選んでいくことから始まる。選ばれた藁しべで藁束を作り、縒り合わせるまで全て手作業の大仕事である。藁は、清潔すぎる木の香りとも、素朴すぎる土の香りとも違う、お日さまと風が静かに息を吹きかけたような豊かな香りを持つ。注連縄という神聖な場所の入口に張られるものからふっと漂う藁の香が、まるで来る年の幸を予感させるような清々しい気分にさせる。今年も残すところ今日一日。来年も引き続きよろしくお願いいたします。〈仕上げたる大注連は地につかぬやう〉『神郡宗像』(2013)所収。(土肥あき子)


December 30122013

 何時の間に冬の月出てゐる別れ

                           稲畑汀子

書に「昭和二十八年十二月」とある。年も押し詰まってきての「別れ」は、作者か相手どちらかの、よんどころない事情によるそれだろう。しかもいま別れると、もう当分会えそうもない。なかなかに別れ難くて縷々話し込んでいるうちに、ふと窓外の闇に目をやると、いつの間にか、冷たく輝く冬の月がかかっていた。美しいというよりも、凄まじい冷ややかさを湛えている。二人の話が深刻だっただけに、余計に冷たさが増幅して感じられたのだ。余談になるが、私は最近、ほとんど月を見ることがない。名月だの満月だのと周囲に言われても、結局は見逃してしまう。理由はしごく単純で、めったに夜間は外出しなくなったからだ。月を愛でることよりも、夜道での転倒のほうが怖いのである。その昔に、「侍だとて忘れちゃならぬ、それは風流、風流心」なんて流行歌もあったっけ。ましてや侍でもない当方としては、だんだん身の置き場がなくなってくる。『月』(2012)所収。(清水哲男)


December 29122013

 はらわたの卵をこぼし柳葉魚反る

                           三宅やよい

る12月21日に行なわれた、第110回「余白句会」の兼題が「柳葉魚(シシャモ)」でした。私はシシャモの産地で育ったので、冬、学校から帰るとシシャモを石炭ストーブの金網にのせて、ひっくり返して、かなり無造作にムシャムシャ食べていました。かつて、私の身体の何%かは、シシャモでできていたのですが、俳句の兼題に出されてみるとむずかしく、たまたま実家に所用ができたことを渡りに舟として、釧路までシシャモを仕入れにいきました。しかし、食べ物としてみていたシシャモを句にするのは困難で、駄句を携えて句会に出席したとき掲句に出会い、膝を叩きました。シシャモの雌は、体の1/4程が卵です。また、養分の半分以上を卵に費やしているでしょう。シシャモの雌の本質は、「こぼれる」ほどの卵をぎりぎりまで増殖するところにあり、焼くと「反る」うごきにつながります。今井聖さんが掲句を高く評価したうえで、「『はらわた』は消化器官を指す語だから生殖器官の卵には付かないのではないでしょうか」と疑問を呈され、精緻な読み方を学びました。句会では掲句が天、地に「火の上の柳葉魚一瞬艶めける」(土肥あき子)。私が狙い撃ちされて天を入れたのが「啄木の釧路の海よ!シシャモ喰う」(井川博年)でした。なお、句会の後の忘年会では、お店に無理を言って釧路より持参したシシャモを炭焼きにして皆でいただきました。清水哲男さんが「シシャモ、うまかったー」。(小笠原高志)




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