いちおう年賀状の下図を作ってみた。賀状を出すのは三年ぶり。(哲




2013ソスN12ソスソス3ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 03122013

 目閉づれば生家の間取り冬りんご

                           星野恒彦

から覚めてぼんやりしている時間に、ふと今居る場所がわからなくなることがある。目に入る情報でだんだんと現実をたぐり寄せるが、なぜかいつも幼い頃を過ごした実家の天井ではないことに不安を覚え、「ここはどこ?」と反応していることに気づく。人生の五分の一ほどしか占めていないはずの家の襖や天井の木目まで、今も克明に覚えているのは、そこが帰る場所ではなく、生きていく日々の全てを抱えていたところだったからだろう。元来秋の季語である林檎だが、貯蔵されたものは冬にも店頭に並ぶ。様々な果物の色があふれる秋ではなく、色彩のとぼしくなった冬のなかに置かれた鮮やかさに、作者の眼裏に焼き付いた生家がよみがえる。閉じられた目には、家族や友人の姿があの頃のままに描かれていることだろう。『寒晴』(2013)所収。(土肥あき子)


December 02122013

 おでん食う堅い仕事のひとらしい

                           火箱ひろ

こで作者の目は世間の目である。厳密に「堅い仕事」なんてものがあるわけはないが、世間の目は何でも値踏みをするから、仕事にも硬軟を言わないと気がすまない。そして値踏みの尺度は世の変化に応じて変化するために、今日の物差しが明日は無効になったりもする。おでん屋にはいろいろな人が出入りするので、世間の目の活動には好都合な場所である。それらの人々の好みや食べ方によって、「堅い仕事」の人かどうかなどは、たちまちにしてわかるような気がする。同じようなスーツにネクタイの人間だって、おでんを介在させると、違いが歴然としてくる。店内でちょっと気になった客が、どうやら「堅い仕事」の人らしいと作者は思っているわけだが、だからといってこの値踏みが作者に特段の何かをもたらすことなどはない。こんなことは、すぐに忘れてしまう。しかしながら私たちは、いつだってこの種の世間の目を忙しく働かせて生きていることだけは確かなのである。『火箱ひろ句集』(2013)所収。(清水哲男)


December 01122013

 蜜柑捥ぎ終へてありけり蜜柑山

                           齋藤春雄

柑狩りの句でしょう。晴天の昼間、たわわに実る蜜柑畑の中に入って、はさみ片手に一つずつ捥(も)ぎ取り、かごに入れていきます。年譜によると作者61歳の句で、背よりも少し高い所にも手を伸ばし、シャンとした気分になっています。帰り道、かご一杯に盛られた蜜柑はずっしり重く、今日の収穫を喜びながらふり返ると、青空の中、蜜柑山は健在で、作者たちがかご一杯に取り尽くそうが蜜柑山は蜜柑山のままです。心地よい敗北感。捥ぎ取っても捥ぎ取っても蜜柑はたわわに陽光を受け、陽光そのものの色彩と香りを恵み続けています。掲句では「ありけり」が二重に効いていて、かごの中の蜜柑の存在を示す過去の「けり」と、今、距離を置いてふり返った蜜柑山への詠嘆の「けり」です。「蜜柑」という語もふくめて巧妙に一句の中で反復をくり返して、鈴なりの蜜柑を表出しているように読みました。『櫻館』(2122)所収。(小笠原高志)




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