和洋折衷「おせち」を予約。正月準備はこれだけ。侘びしいな。(哲




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November 27112013

 サンルーム花と光のさざめける

                           神保光太郎

句としてすぐれた出来ではないと思うけれど、詩人・神保光太郎の俳句は珍しい。しかも「サンルーム」を季語にした俳句を、私はこれまであまり見かけていない。サンルームと言わないまでも、寒気が強くなるとともに暖かい陽ざしが恋しくなってくる。そんな今日この頃。暑いときはあんなに日陰を選んで歩いていたのに、今は逆に誰しも日当りを求めて歩きたい。サンルームのなかでは、日ざしによって汗ばむほどになる。掲句の「花」はいったい何という花だろうか? シクラメンだろうか……季節の花なら何であってもかまわない。花と光があふれさざめいて、冬にはとても快適なスペースである。光太郎は若いときは短歌も作った。のち「日本浪漫派」の同人として活躍し、堀辰雄らの第二次「四季」にも参加した。今は光太郎をよく知らない人が増えているかもしれない。じつは私は大学時代に、神保教授のドイツ語の授業を受けたことがある。たいていベレー帽をかぶり、笑いを絶やさない先生だった。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


November 26112013

 茶の花や家族写真の端は母

                           齋藤朝比古

族写真では家族の誰かがタイマーで撮影する。撮影者を除いた家族は一列に並び、母は遠慮がちに端に位置する。撮影者はタイマーをセットしたのち、列の端に加わるのが最適だと考える。が、しかし、母たるものの思考はそうではない。戻ってきた撮影者に対して「さぁさぁあなたが真ん中に。ほらここに入りなさい」と身をゆずり、「お母さんもうそんなこといいから」といった押し問答の間に、無情にもシャッターはおりてしまう。今のような撮影状態が常時確認できるデジタルカメラではない時代、失敗した写真のどれもが現像されることとなり、思いがけないやりとりが目の当たりになることもある。茶の花もまた、目の位置にどんと咲くような花ではない。花ならばもっと真ん中に咲けばいいのに、と思う心が在りし日の母の姿に重なってゆく。『累日』(2013)所収。(土肥あき子)


November 25112013

 県道に俺のふとんが捨ててある

                           西原天気

あ、えらいこっちゃ。だれや、こんな広い路のど真ん中に、俺のふとんをほかしよったんは。なんでや。どないしてくれるんや……。むろん情景は夢の中のそれだろう。しかし夢だからといって、事態に反応する心は覚醒時と変わりはない。むらむらと腹が立ってくる。しかし、こういう事態に立ち至ると、「どないしてくれるんや」と怒鳴りたくなる一方で、気持ちは一挙にみじめさに転落しがちである。立腹の心はすぐに萎えて、恥辱の念に身が縮みそうになる。この場から逃げだしたくなる。ふとんに限らず、ふだん自分が使用している生活用具などがこういう目にあうと、つまり公衆の面前に晒されると、勝手に恥ずかしくなってしまうということが起きる。手袋やマフラーくらいなら、経験者は多数いるだろう。人に見られて恥ずかしいものではないのに、当人だけがひとりで恥に落ち込んでいく。何故だろうか。この句を読んで、そんな人心の不思議な揺れのメカニズムに、思いが至ったのだった。それにしても「ふとん」とはねえ。『けむり』(2011)所収。(清水哲男)




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