November 182013
かつてラララ科学の子たり青写真
小川軽舟
まずは「青写真」の定義を、Wikipediaから。「青写真(あおじゃしん、英: cyanotype)は、サイアノタイプ、日光写真ともいい、鉄塩の化学反応を利用した写真・複写技法で、光の明暗が青色の濃淡として写るためこう呼ばれる」。句では「日光写真」を指している。小春日和の午後などに「ラララ科学の子」である鉄腕アトムの種紙で遊んだ子どもの頃の回想だ。当時はそうした遊びに熱中していた自分を立派な「科学の子」だと思っていた。が、日光写真はたしかに科学的な現象を応用した遊びではあったけれども、その遊びを開発したわけじゃなし、とても「科学の子」であったとは言えないなと、微苦笑している図だろう。本格的な青写真はよく建築の設計図に利用されたから、敷延して「人生の青写真」などとも言われる。この句には、そんな意味合いもうっすらと籠められているのだと思う。往時茫々。『呼鈴』(2012)所収。(清水哲男)
November 172013
不機嫌の二つ割つたる寒卵
鈴木真砂女
長生きしている人は、ストレスの出し方も粋である。96歳まで生きた銀座卯波の女将・真砂女は、やたら自慢する客に、不機嫌になっている。(作法の知らない客だこと。小さな店なんだから、ほかのお客さんの邪魔にならないように話してよ。そんな飲み方ならちがう店に行って頂戴。)こう心の中でつぶやくやいなや、件の客は、「おかみ、卵焼き」と注文してきたから、これ見よがしに不機嫌な気持ちを込めて卵を立て続けに二つ割る。この無言のふるまいが不粋な客に届いたかどうかは定かではない。ただし、常連客には卵を溶く音とともにしっかり聞こえていた。(これから絶品の卵焼きをあんたの口の中に入れてあげるから、黙って食べなさい)。『鈴木真砂女全句集』(2010)所収。(小笠原高志)
November 162013
花束の冷たさを抱き夜のバス
川里 隆
贈られた大きなその花束は美しくラッピングされていて、抱えた腕にずっしりと重い。バスにはほとんど乗客はいなくて、ぼんやり車窓に目をやりながら揺られているのだろう。さっきまで送別会の主役だったのか、などともの寂しい方へ気持ちがゆくのは、冷たし、の持つ心情的な印象からか。そういえば、結婚が決まってささやかな式をあげることになった時、それまで何も口出しをしなかった父が、花束贈呈は止められないか、と言ったのを思い出した。結局諸事情があって止められなかったのだが、式の後の二次会で私の教え子に囲まれて楽しそうにしている父を見てどこかほっとしたのだった、三十年前の話。花束の冷たさは、通っている水の冷たさであると同時に、それを抱えている作者の心持ちでもあるのだろう。『薔薇の首』(2013)所収。(今井肖子)
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