七五三。私のころは、戦争中でそれどころではなかった。(哲




2013ソスN11ソスソス15ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

November 15112013

 暗幕にぶら下がりゐるばつたかな

                           波多野爽波

っ黒な暗幕に、緑色の螇蚸がぶら下がっている。その一点の景がクローズアップされている。この螇蚸、決して、愛らしいモノとして描かれているのではない。むしろ、無韻の中、不気味な心象風景として表現されている。暗幕というモノと螇蚸というモノ。それぞれが、単独で描かれれば、別に、何ということはない。しかし、暗幕というシチュエーションのもと、そこに見出された一匹の螇蚸は、強烈な違和感を読者にもたらす。その違和感が、モノの実在感・存在感をありありと感じさせる。『骰子』(1986)所収。(中岡毅雄)


November 14112013

 壺割れてその内景の枯野原

                           東金夢明

くら上から覗き込んでも口がつぼまった壺の内側を見るのは難しい。割れて初めて薄暗い壺の内側に光があたり、そこに描かれた景色が広がるとは極めて逆説的だ。なだらかな球形であるべき壺の内側が破壊されたことで一枚の枯野原となる、低く垂れこめた空の下、モノトーンの寂しい景色がどこまでも続く。様々な想像を呼び寄せる句だ。こうした句に出会うと日常、見過ごしている物にさまざまに異なる世界が被さっていることに気づかされる。ふとした瞬間に異次元の世界への扉が開く、そうした世界によく分け入る人は、俳句の言葉で別の世界の入り口を探し当てられる人なのだろう。『月下樹』(2013)所収。(三宅やよい)


November 13112013

 この子らに未来はありや七五三

                           清水 昶

五三に限らないけれど、着飾ってうれしそうな子どもたちを見るにつけ、昶ならずとも「未来はあるか」という懸念が、身うちでモグモグしてしまうことが近年増えてきた。こちらがトシとって、未来の時間がどんどん減ってきていることと、おそらく関係しているのだと思う。それにしても、先行き想定しようのない嫌ァーな時代が仄見えている気がする。私などが子どもの頃、わが田舎では「七五三」といった結構な祝いの風習などなかった。いわんや「ハッピーバースデイ」なるものだって。だから、わが子の「七五三」や「ハッピーバースデイ」などといった祝い事では、むしろこちとら親のほうが何やら妙に照れくさかったし、落着かなかった。子どもに恵まれなかった昶の句として読むと、また深い感慨を覚えてしまう。もちろん「この子ら」の未来だけでなく、自分たち親の未来や人類の未来への思いを、昶は重ねていたはずである。掲句は、サイト「俳句航海日誌」の2010年11月15日に発表されている。亡くなる半年前のことである。亡くなる一週間前の句は「五月雨て昏れてゆくのか我が祖国」である。「子らの未来」や「我が祖国」などが、最後まで昶の頭を去ることはなかったかもしれない。『俳句航海日誌』(2013)所収。(八木忠栄)




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