October 232013
Now the swing is still:/a suspended tire/Centers the autumn moon.
ニコラス・ヴァージリオ
大意→「ぶらんこは静止していて/つるされたタイヤの/まんなかに秋の月がある」(佐藤和夫訳)。作者はNicholas Virgilio(アメリカ。1928年生まれ)。掲句は『ザ・ハイク・アンソロジー』(ニューヨーク/1986)に収録されている。「つるされしタイヤのまんなか秋の月」とでも拙訳しておこうかーー。誰もが知っているブランコそのものではなく、ブランコの代用として吊るされているタイヤだろう、それが静止している。そのまんなかから丸い月が眺められる。静かな秋の夜である。ーーそんな情景としてとらえていいだろう。どこかの家の庭だろうか、小さな公園だろうか。日中は子どもたちが、乗っかったり揺さぶったりして遊ばれていたタイヤも、夜にはさすがに静止したままだ。作者はうってつけのように、そのタイヤのまんなかから月をうっとり眺めているのだろう。そのとき思わず「これは俳句になるぞ!」と思って作ったのかどうか。ニコラスは、ペンシルヴァニア大学で開催された第1回国際ハイク・フェスティバルの共同主催者だったという。各地で、今もさかんに国際的なハイク・フェスティバルが開催されている。佐藤和夫『俳句からHAIKUへ』(1987)所載。(八木忠栄)
October 222013
稲雀ざんぶと稲にもぐりけり
大島雄作
山道で迷っても雀を見つけることができれば人里が近いのだと安心するという話しの通り、雀は昔から人間と生活をともにしてきた。実った稲を食べるための害鳥でありながら、害虫を捕食する益鳥でもあり、長らく共生関係を築いてきた。歌や民話にたびたび登場するのは身近な鳥であるとともに、その可愛らしい容姿によるところも大きい。実際の雀は人間に対して臆病で、用心深いというが、雀同士は相当のおしゃべりで遊び上手だ。欣喜雀躍という言葉がある通り、ちゅんちゅんと鳴きながら、飛び跳ねる姿はなんとも無邪気で楽しそうだ。掲句は一面の波打つ稲田に雀たちが賑やかに出入りしている。きっと稲穂を波頭に見立てた波乗りごっこが開催され、母雀に「遊びながら食べてはだめ」などと叱られているに違いないのだ。〈鷹柱いっぽん予約しておかむ〉〈ここからの山が正面更衣〉『春風』(2103)所収。(土肥あき子)
October 212013
貧しさの戦後の色よ紫蘇畑
鍵和田秞子
さきごろ亡くなった漫画家のやなせたかしが、こんなことを書き残している。「内地に残っていた銃後の国民のほうがよほどつらい目を見ている。たとえ、戦火に逢わなかったとしても飢えに苦しんでいる」(「アンパンマンの遺書」)。掲句の作者は、敗戦当時十三歳。別の句に「黍畑戦中の飢え忘れ得ぬ」とあるように、戦後七十年近くを経ても、いまなお飢えの記憶は鮮明なのである。当時七歳でしかなかった私などでも、飢えの記憶はときおり恨み言のようによみがえってくる。この句のユニークさは、そんな飢えに代表される貧しさを、「色」で表現している点だろう。通りかかった一面の紫蘇畑を見て、ああこの色こそが「戦後の色」と言うにふさわしいと思えたのだった。紫蘇は赤紫蘇だ。焼け跡のいずこを眺めても、まず目に入ってくるのは瑞々しさを欠いた紫蘇の葉のような色だった。他にも目立つ「色」はなかったかと思い出してみたが、思い浮かばない。埃まみれの赤茶けた色。憎むべき、しかしどこにも憎しみをぶつけようのない乾いた死の色であった。「WEP俳句通信」(76号・2013年10月刊)所載。(清水哲男)
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