東京地方、昨夜からつめたい雨。厳しかった残暑が嘘のよう。(哲




2013ソスN10ソスソス20ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 20102013

 樹も草も時雨地に呼ぶ峡の国

                           飯田龍太

の読みは、キョウ。山あいにはさまれた谷で、作者が住む山梨県、旧境川村です。山から谷の斜面にかけて、樹が草が、垂直を志向しながら生えていて、谷間に続いています。「時雨地に呼ぶ」とは何なのだろうかと考えております。何が呼ぶのか。ふつうに読めば、樹も草も時雨を地面に呼んでいる、でよいのでしょう。ただ、この句は、「峡の国」が地形としてダイナミックなので、地球規模の大きな構想で読んでみたいとも思います。樹の根も草の根も地球の中心を志向しており、時雨も同様、地球の引力に引き寄せられて落下しています。何が呼んでいるのか。それは、地球の中心、重力が呼んでいて、峡の国ではその垂直の力が視覚化されやすいのでしょう。「地」は重力と読みました。物質に質量を与えるヒックス粒子が報道されていて、全く理解できていないのですが、すこしばかり俳句の読みに影響しているかもしれません。『春の道』(1971)所収。(小笠原高志)


October 19102013

 打てばひゞくわれと思ふや秋の風

                           久保よりゑ

らを、打てば響く、とはなかなか言えないだろう、自信家だったのかと最初は思った。事実、そういう側面も持っていた作者であるようだ。大正十四年、四十代初めの作だが『ホトトギス雑詠選集 秋の部』(1987・朝日文庫)の中でも『虚子編歳時記』の中でも、秋風の項にあって趣の異なる一句である。ただ、何度か読み返していると、打てば響く自分を打って欲しい、どうして打ってくれないのか、と言っているようにも思えてくる。はげしくあらく、身にしみてあはれをそふる、という秋風。その中に身を置きながら何を思っていたのだろう。(今井肖子)


October 18102013

 蓑虫にうすうす目鼻ありにけり

                           波多野爽波

波の代表作だが、そもそも、蓑虫に目鼻はあるのだろうか。ネットで調べて見ると、次のようにある。「実は蓑虫は子孫を残すためだけに羽化するため、ミノガに口はなく、餌を食べることはありません。一方、メスはいつまでたっても羽化しません。実は雌は完全に卵を産むためだけの成虫になるため、手足はおろか、目などの感覚器すらありません。」。意外な事実である。しかしながら、爽波が見たのが、雄の蓑虫ならば、目があっても不思議はなかろう。そんなことよりも、この句の詩的真実が訴えかけてくるのは、蓑虫という小動物への作者の親近感である。「うすうす目鼻ありにけり」という細かな観察眼は、確かに、蓑虫の目鼻を捉えた。そう読者に思わせるところがある。『湯呑』(1981)所収。(中岡毅雄)




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