また台風が発生。来週半ばに東日本に接近か。勘弁してほしいな。(哲




2013ソスN10ソスソス18ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 18102013

 蓑虫にうすうす目鼻ありにけり

                           波多野爽波

波の代表作だが、そもそも、蓑虫に目鼻はあるのだろうか。ネットで調べて見ると、次のようにある。「実は蓑虫は子孫を残すためだけに羽化するため、ミノガに口はなく、餌を食べることはありません。一方、メスはいつまでたっても羽化しません。実は雌は完全に卵を産むためだけの成虫になるため、手足はおろか、目などの感覚器すらありません。」。意外な事実である。しかしながら、爽波が見たのが、雄の蓑虫ならば、目があっても不思議はなかろう。そんなことよりも、この句の詩的真実が訴えかけてくるのは、蓑虫という小動物への作者の親近感である。「うすうす目鼻ありにけり」という細かな観察眼は、確かに、蓑虫の目鼻を捉えた。そう読者に思わせるところがある。『湯呑』(1981)所収。(中岡毅雄)


October 17102013

 大学に羊生まれぬ秋の風

                           押野 裕

学になぜ羊がいるのだろう?農学部の牧場なのかドリーのように実験用の羊なのか。この句の眼目は羊が生まれた場所と季節だと思うが、普通羊は秋に交配時期が来て春に生まれる。とすると、この子羊は「大学」で何らかの処置をほどこされた親羊から生まれたのではないだろうか。そう考えると秋生まれの羊が人工的で華奢な存在に思われる。春に生まれた動物は気温も高くなり食べ物も豊富に育つが、秋生まれの子羊には厳しい生活環境がすぐやってくる。野良猫の場合も秋生まれの仔猫はほとんどが死んでしまうそうだ。これからの寒さの予感を感じさせる秋風のあわれさが子羊の存在の弱弱しさを暗示しているように思われる。『雲の座』(2011)所収。(三宅やよい)


October 16102013

 来るわ来るわ扱(こ)くあとへ稲を引担(ひつかつ)ぎ

                           泉 鏡花

々稲刈りは機械化し、時期も早くなっているようだ。だから、今の時期はもう晩稲もとっくに米粒となっておさまっているだろう。しかし、あの鏡花にしてこの滑稽味あふれる一句を、ここでとりあげておきたい。「扱く」は「脱穀」のことで、機械が籾を扱く。「稲扱き」とも呼ばれる。掲句は稲扱きの作業風景を詠んでいる。私などは農家の子として、田植えに始まって、稲刈り、稲扱きまで手伝わされたから、この句にはどうしても心が寄ってしまう。作業場に高く積み上げられた稲が、脱穀機のそ脇に次々に運ばれてくる。脇に立ってそれを脱穀械で扱く父親に一束ずつ突き出すのが、私の役割だった。機械から撒きあがる細かい稲塵が首のあたりから入るから、チクチクしてたまらなくせつない。でも稲の山はなかなか減らない。夜の作業だとチクチクするやら眠いやら。「来るわ来るわ」に始まって、「引担ぎ」で止めるまで、鏡花にしては滑稽味あふれる描写である。「引担ぎ」に作業のリアリティーがこめられていて、しかも可笑しさが感じられる表現だ。つい自分の子どもの頃のしんどかった作業経験を重ねてしまったけれど、今は田んぼで機械が稲を刈り取り、一挙に籾にして袋詰めしてしまう。あの忘れもしないチクチクは、今や昔のモノガタリ。鏡花には他に「片時雨杉葉かけたる軒暗し」がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)




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