台風が接近中。進路に当たりそうな福島原発の備えは万全か。(哲




2013ソスN10ソスソス15ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 15102013

 終の家と思へば匂ふ榠樝の実

                           井上ひろ子

ままな一人暮らしのときは、たびたび引越しを重ねていた。それは気分転換のひとつでもあり、新しい洋服を買うような気軽さだったが、結婚して現在の家に移ってからは18年間ずっと同じ家に住んでいる。居心地が良いこともあるが、引越しそのものが面倒になったのだ。長く生きていればいるほど、荷物は増える。それを整理し、分類し、始末する労力と割かれる時間がどうにも惜しくなったのだ。作者は今の家を見上げ、ふと、もう引っ越すことはないだろうな、と思う。それは年齢から余生の数字を換算する行為でもある。青空に貼り付くように実る鮮やかな果実が、この地に根をおろした自分の姿とも重なり、ひときわ愛おしく濃く匂うのだろう。『偏西風』(2013)所収。(土肥あき子)


October 14102013

 ざわざわと蝗の袋盛上る

                           矢島渚男

作農家にとって、「蝗」は一大天敵だ。長い間そう思ってきたけれど、日本の水田に生息するほとんどの蝗は、瞬く間に稲などを食い尽くしてしまういわゆる「蝗害」とは無縁なのだそうである。悪さをするのは「飛蝗」という種類の虫で、その猛烈な悪行は映像などでよく知られている。しかし、子供の頃にはよく蝗捕りをさせられた。稲が食い尽くされないまでも、何か悪さはしていたからだろう。殺虫剤が使われていなかった時代で、稲の実った田んぼに入ると、蝗たちが盛大に跳ね回っていた。あえて捕ろうとしなくても、向こうからこちらの身体にいくらでもぶつかってきた。顔面に体当たりされると、けっこう痛い。そんなふうだから、大きな紙袋の口を開けておいて前進すると、面白いように飛び込んできた。とは言っても、適当なところで口を閉めないと逃げられてしまう。句の状態はそこから先のことで、今度は手で一匹ずつ捕まえては袋に入れていく。そしてだんだん「ざわざわ」と音を立てながら袋が盛り上ってくると、蝗捕りが快感につながってくる。こうなってくると、袋のようにまさに心もざわめいてきて、どんどん弾んでくる。充実してくる。この句を読んで、長らく忘れていたあの頃の充実感を思い出し、田舎の秋の生命の活力感に思いを馳せたのであった。『延年』(2002)所収。(清水哲男)


October 13102013

 一歩出てわが影を得し秋日和

                           日野草城

のやわらかな日差しを窓外に見ていると、少し身なりを整えて、この日曜日、外出しようかという気になります。晴天の日、家の中と外では文字通り、ケとハレの違いがあるように思われます。外に出るときは、少しはにかみながら晴れがましくもあります。掲句は、作者自らの足どりを微足(スローテンポの歩み)の舞踏家を見るように示しています。「一歩出て」には、家の中から外へ出る一歩に、相当なエネルギーを要しています。ふだんは病に身を横たえている作者は、直立歩行して得られた「わが影」を見て、自ら立って、生きている姿を確認しています。この姿は、秋日和を照明にした、作者の晴れ舞台のようでもあるでしょう。共演者は脇から支えている妻。しかし、観客は誰もいません。ただ、「わが影」を見ている作者自身が、演じる者と観る者の二役をこなしています。『人生の午後』(1953)所収。(小笠原高志)




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