東京地方、暑さが戻ってくるようだ。急な気温の変化にご注意。(哲




2013ソスN10ソスソス7ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 07102013

 木の蔭の中の草影秋暑し

                           山口昭男

は大気が澄んでくるから、見えるものの輪郭がくっきりとしてくる。影についてもそれは同じで、陽炎燃える春などに比べれば、その差は歴然としている。この句は「木の蔭」と「草の影」を同じ場所に同時に発見することで、澄み切った大気の状態と夏を思わせる強い日差しとを一挙に把握している。それにしても、木陰の中の草影とは言い得て妙だ。ふだん誰もが目にしている情景だが、たいていの人はそのことに気がつかないか、気づいても格別な感想を持つことはないだろう。そうした何でもないようなトリビアルな情景を拾い出し、あらためて句のかたちにしてみると、その情景以上の何かが見えてくるようだ。俳句の面白さのひとつはたぶん、このへんにある。この発見に満足している作者の顔が見えるようで、ほほ笑ましい。『讀本』(2011)所収。(清水哲男)


October 06102013

 絵の中の時計も正午秋の蝉

                           皆吉 司

いうことは、現在は正午。絵の中の時計は、一日に真昼と真夜中に一回ずつ、正しい時刻と重なります。ということは、23時間58分は狂っているということで、朝起きて絵を見ても正午を指していて、夕食を食べている時間もずっと正午を指しているわけです。当たり前ですよね、絵なんだから。虚構なんだから、現実の世界に侵入してくるのは昼と夜の真ん中の一回ずつ、一分ずつが丁度よい。ところで、秋の蝉です。親が悪いのか、自分がとんまなのか、人生(蝉生?)最大の大遅刻です。今啼(な)いたって、たぶん、雌には逢えないじゃないですか。それとも、土の中にはもう還れないのだから、絵の中に入って来年の夏まで待ちますか?冗談です。絵の中で描かれた時計は、一日に二度の周期で現実と重なる。季節外れに羽化した蝉は、果たして、同様にとんまな雌に巡り逢い重なり合えるやら?人の世では似た者夫婦という言葉もあるので、甘い期待に賭けたいところですが、このてんまつやいかに。正午の今が、正念場だぞ、啼けよ、セミ。なお、掲句からしみじみ、自分も秋の蝉なのではないかと、ふと寂しく笑います。『皆吉司句集』(2000)所収。(小笠原高志)


October 05102013

 背の高きことは良きこと秋立ちぬ

                           宮田珠子

秋からほぼ二ヶ月経ってしまったのだが今日の一句とした。平成二十一年秋の作とわかっているが、活字になっていないので出典はない。秋立つのは一日のこと、たいていまだまだ暑いので季感も含めて、暦の上では秋、と思いながら一日過ごしても句を為しづらい。この句が、秋の晴、であったら平凡な発想、秋立つ、であるから、ふと清々しいのだろう。当時小学六年生だったお嬢さんを詠んだ一句、と知ると、背が高いことを気にしている娘に対する母の眼差しと共に、母と娘の立秋の一日が思われる。先週、作者は五十年の生涯を閉じられ、その葬儀に参列した。初めてお目にかかったお嬢さんは今は高校一年生、すらりと伸びた脚に制服がよく似合っていた。(今井肖子)




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