十月になりましたね。おだやかな日々がつづきますように。(哲




2013ソスN10ソスソス1ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 01102013

 誰にでも付いて行きたいゐのこづち

                           小寺篤子

のこづち(牛膝)はどこにでもよく見られる草で、茎が牛の膝に似たことからこの名が付いた。秋には小さな種子で覆われ、衣服や動物にところかまわず付着する。ゐのこづち、せんだんぐさ、おなもみ、の3種がくっつく選手権不動の上位と思われる。なにしろ、くっつくことを主にして進化を遂げた形態なのだ。誰かに付いていくことで勢力範囲を広げるというのは完全な他力本願である。しかし、個人的には迷惑でしかないこの強引な方法も、掲句のように「付いて行きたいのでこうなりました」と言われれば、なんとなく愛嬌も感じられる。いきあたりばったりが臨機応変と言い換えられるように、他力本願もまた「あなたを信じています」という一途な思いに変身し、ゐのこづちのひと粒ひと粒がけなげな姿に見えてくるから不思議である。『薔薇の風』(2013)所収。(土肥あき子)


September 3092013

 転ぶ子を巻く土ぼこり運動会

                           嘴 朋子

年のように、近所の小学校の運動会を見に行く。年々歳々、むろん児童たちは入れ替わっているのだが、競技種目は固定されているようなものなので、毎年同じ運動会に見えてしまう。ともすると、自分が子供だったそれと変わりない光景が繰り広げられる。転ぶ子がいるのも、毎度おなじみの光景である。掲句では「巻く土ぼこり」とあるから、かなり派手に転んでしまったのだろうか。しかし作者は可哀想にと思っているわけではない。転ぶ子が出るほどの子供らの一所懸命さに、拍手をおくっているのだ。いいなあ、この活気、この活発さ。昔住んでいた中野の小学校の運動場は、防塵対策のためにすべてコンクリートで覆われていたことを思い出した。運動会も見に行ったが、転んでも当然土ぼこりは立たない。転んだ子は、どこかをすりむいたりする羽目になりそうだから、見ていてひやひやさせられっぱなしであった。やはり、運動会は砂ぼこりが舞い上がるくらいがよい。『象の耳』(2012)所収。(清水哲男)


September 2992013

 ちちははが骨寄せあえる秋の暮

                           清水喜美子

彼岸の句とも、納骨の句とも読めます。「骨寄せあえる」とあるので、作者は、先に眠る者の骨に寄せて、そっと、大事に納骨したのでしょう。あるいは、生前、仲睦まじいご両親だったのでしょう。父という肉体は埋葬されるとき「ちち」という骨となり、母という肉体も「はは」となる。「ちち」と「はは」が、お墓の中で「ちちはは」として構成されている。作者はそれに向けて線香をあげ合掌しています。墓は文字通り、土の中で死者が眠る所。おがみ終えると、墓にも卒塔婆にも樹木にも夕日がさして、影が長く伸びている墓地。生きているということは、秋の暮の夕日に染まること、また日が昇り、暮らしが始まるということ。死者は土に、生者は日の中に。『風音』(2009)所収。(小笠原高志)




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