よく晴れそうだ。久しぶりに神代植物公園にでも出かけたい。(哲




2013ソスN9ソスソス27ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 2792013

 秋風に孤(ひと)つや妻のバスタオル

                           波多野爽波

風に妻のバスタオル、でも、寂しさは十分伝わるが、ここでは、あえて、「孤つ」と断っている。そのことによって、寂寥感は、いや増しに増す。一句に詠まれているのは、バスタオルであるが、単にバスタオルだけが描かれている句とは思えない。写生句を装いながら、作者の妻に対する日常の思いが、その背景に反映されているように思われる。そう考えれば、「孤つ」に籠められた心情も深い。『湯呑』(1981)所収。(中岡毅雄)


September 2692013

 ショーウィンドウのマネキン家族秋高し

                           山田露結

ョーウィンドウの中に母、父、男の子、女の子の家族が最新ファッションに身を包み、楽しそうに微笑みあっている。この頃はピクニックにも遊園地にも無縁な生活をしているので、昨今の家族がどのように休日を過ごしているのか、とんと疎くなってしまった。時々電車で見かける家族はショーウィンドウの中にいる家族のように上機嫌でもなく、おしゃべりも弾んでいないように見える。それが現実の家族で、気持ちのよい秋晴れに行楽地へ繰り出しても子供は駄々をこね、父と母はささいなことで怒りだすこともしばしば。せっかくの休日が出かけたことで台無しになることだったあるのだ。ウインドウの中の家族は葛藤がない、身ぎれいなマネキンの家族と澄み切った秋空は空々しい明るさで通い合っているように思える。『ホームスウィートホーム』(2012)所収。(三宅やよい)


September 2592013

 いつ来るとなく集りし踊かな

                           三遊亭圓朝

ろいろな踊りがあるけれど、俳句で「踊り」といえば盆踊りのこと。盆踊りはもともと、盆に戻ってきた先祖の霊もまじって、人が一緒になって踊るというもの。踊り手が手拭や編み笠で顔を隠すようにして踊るのは、亡者を表わしている。夕刻から盆太鼓が打ち始められ、次第に踊り手が増えて輪ができていく。まさに「いつ来るとなく」、いつしか人が集まって踊りの輪が広がっていく。圓朝のことだから、そのなかに尋常ならざる者も、幾人かまじっているのかもしれない。私もその昔、見よう見真似で踊ったりしたものだった。さかんなときは二重三重の輪ができることもあった。仮装大会などもあると一段と盛りあがった。私の母は若い頃には、乳飲児の私を姑に預けて、踊りに夢中になったこともあった、とよく聞かされた。私が今住む町の公園で、町内会の祭りが十年以上つづけられている。独自な盆唄をもたないから、いまだにあの♪月が出た出た……の炭鉱節のCDをくり返し流しつづけている。踊るアホーより見るアホーのほうが多く、自治会が運営する露店のビールや焼そばが繁昌しているようだ。盆踊りも時代とともに様変わりしたり、ちっとも代わり映えしなかったり、さまざまである。圓朝には他に「其なりに踊り込みけり風呂戻り」の句がある。永井啓夫『三遊亭圓朝』(1962)所収。(八木忠栄)




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