台風上陸はどうやら避けられそうだ。少々の雨は仕方がないか。(哲




2013ソスN9ソスソス26ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 2692013

 ショーウィンドウのマネキン家族秋高し

                           山田露結

ョーウィンドウの中に母、父、男の子、女の子の家族が最新ファッションに身を包み、楽しそうに微笑みあっている。この頃はピクニックにも遊園地にも無縁な生活をしているので、昨今の家族がどのように休日を過ごしているのか、とんと疎くなってしまった。時々電車で見かける家族はショーウィンドウの中にいる家族のように上機嫌でもなく、おしゃべりも弾んでいないように見える。それが現実の家族で、気持ちのよい秋晴れに行楽地へ繰り出しても子供は駄々をこね、父と母はささいなことで怒りだすこともしばしば。せっかくの休日が出かけたことで台無しになることだったあるのだ。ウインドウの中の家族は葛藤がない、身ぎれいなマネキンの家族と澄み切った秋空は空々しい明るさで通い合っているように思える。『ホームスウィートホーム』(2012)所収。(三宅やよい)


September 2592013

 いつ来るとなく集りし踊かな

                           三遊亭圓朝

ろいろな踊りがあるけれど、俳句で「踊り」といえば盆踊りのこと。盆踊りはもともと、盆に戻ってきた先祖の霊もまじって、人が一緒になって踊るというもの。踊り手が手拭や編み笠で顔を隠すようにして踊るのは、亡者を表わしている。夕刻から盆太鼓が打ち始められ、次第に踊り手が増えて輪ができていく。まさに「いつ来るとなく」、いつしか人が集まって踊りの輪が広がっていく。圓朝のことだから、そのなかに尋常ならざる者も、幾人かまじっているのかもしれない。私もその昔、見よう見真似で踊ったりしたものだった。さかんなときは二重三重の輪ができることもあった。仮装大会などもあると一段と盛りあがった。私の母は若い頃には、乳飲児の私を姑に預けて、踊りに夢中になったこともあった、とよく聞かされた。私が今住む町の公園で、町内会の祭りが十年以上つづけられている。独自な盆唄をもたないから、いまだにあの♪月が出た出た……の炭鉱節のCDをくり返し流しつづけている。踊るアホーより見るアホーのほうが多く、自治会が運営する露店のビールや焼そばが繁昌しているようだ。盆踊りも時代とともに様変わりしたり、ちっとも代わり映えしなかったり、さまざまである。圓朝には他に「其なりに踊り込みけり風呂戻り」の句がある。永井啓夫『三遊亭圓朝』(1962)所収。(八木忠栄)


September 2492013

 星の座の整つてくる虫しぐれ

                           前田攝子

月末、天文愛好家が「天体観測の宝庫」と賞賛するあぶくま高原に星を見に行った。昼の暑さはまだ夏のものだったが、山から闇がしみだしてくるような午後7時を回る頃には気温もすっかり下がり、長袖でなくては寒いほどだった。細やかな星のきらめきのなかで天の川に翼をかけたはくちょう座が天体から離れると、秋のくじら座が姿をあらわす。爽やかな空気のなかで、星たちは冴え冴えと輝きを増し、大きな部屋に描かれた天井絵を掛け替えるように、天体の図柄が変わる。秋の役者が揃ったところで、虫しぐれが地上でやんやの喝采をあげる。星座に虫の名を探してみるとひとつきり、それもハエ。なんとも残念なことだ。名前のない小さな星たちを集めて、秋の空にすずむし座やこおろぎ座を据えて、地上と天上の大合唱の間に身を置く空想を今夜は描いてみよう。〈舵取も荷積みも一人秋高し〉〈水に置きたき深秋の石ひとつ〉『晴好』(2013)所収。(土肥あき子)




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