今日も日本全国晴れマーク。どうも天気が極端でいかん。(哲




2013ソスN9ソスソス18ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 1892013

 いささかのしあわせにゐて秋燈

                           安藤鶴夫

月中旬くらいまでは残暑がつづく。これは酷暑の連続だった今年に限ったことではなく、例年のことであると言っていい。歳時記では「秋燈(あきともし)」とならんで「燈火親しむ」がある。同じあかりでも、大気が澄んできて少々涼しさが感じられてくる秋は、あたりの静けさも増して、ようやく心地よい季節である。秋燈はホッとできるあかりである。掲句の場合、身に余るような大袈裟な「しあわせ」ではなく、庶民にふさわしい「いささか=ちょいとばかり」だが、うれしい幸せ感なのであろう。その幸せの中身は何であれ、秋のあかりのもとにいると、どことなくうれしさが感じられるということであろう。『巷談本牧亭』(直木賞受賞)や『寄席紳士録』などの名著のある“あんつる”さんの仕事を、江國滋は「含羞の文学」と評し、「詩人である」とも指摘していた。掲出句はいかにもそう呼ばれた作家にふさわしい、ほのぼのとした一句ではないか。他に「とりとめしいのちをけふは草の市」がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


September 1792013

 高稲架やひとつ開けたるくぐり口

                           染谷秀雄

穂の波が刈り取られ、乾燥させるために稲架を組む。5段も組めば大人の身長はゆうに越え、規則正しく組まれた黄金の巨大な壁が出来あがる。一面の青田も、稲穂も、そして稲架もあまりに広大すぎると、まるでもとからそこにあったかのように景色に溶け込んでしまうが、高稲架にくぐり口を見つけた途端、ここを行き来する人の生活が飛び込んでくる。この広大なしろものが、すべて人の手によるものであったことに気づかされる。ひ弱な苗から立派な稲穂になるまでの長い日々が、そのくぐり口からどっと押し寄せてくる。苦労や奮闘の果ての人間の暮らしが、美しく懐かしい日本の風景として見る者の胸に迫る。〈月今宵赤子上手に坐りたる〉〈鳥籠に鳥居らず吊る豊の秋〉『灌流』(2013)所収。(土肥あき子)


September 1692013

 老人の暇おそろしや鷦鷯

                           矢島渚男

景としては、老人がのんびりとした風情で日向ぼこでもしている図だろう。付近では「鷦鷯(みそさざい)」が、小さな体に似合わぬ大きな声でなにやら啼きつづけている。静かな老人とは好対照だ。ここまではよいとして、では「暇おそろしや」とは何だろう。作者には、何がおそろしいのだろうか。作句時の作者は五十代。そろそろ老いを意識しはじめる年代だ。みずからの老いに思いがゆきはじめると、自然の成り行きで周辺の老人に目がとまるようになる。詳細に観察するわけでもないけれど、一見暇をもて余しているように見える老人が、実は案外そうでもないらしいとわかってくる。老人がたまさか見せる微細な表情の変化に、彼がときにはまったくの好々爺であったり、逆に憤怒の塊であったりと、さまざまな感情が渦巻いている存在であることに気づくのである。老人の動作はのろいけれど、神経は忙しく働いているのだ。そんな趣旨の詩を晩年の伊東信吉は書き残したが、若者には伺い知れない老人の胸のうちを、作者は「おそろしや」と詠んだのだと思う。その「おそろしさ」の根元にあるのは、むろん「明日は我が身」というこの世の定めである。冬の句だが、敬老の日にちなんで……。『船のやうに』(1994)所収。(清水哲男)




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