疲れやすい。加齢のせいもあるだろうが、やはり夏バテだな。(哲




2013ソスN9ソスソス13ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 1392013

 夜の湖の暗きを流れ桐一葉

                           波多野爽波

の句には、爽波の自註がある。作句工房がうかがえて、面白い。「真っ暗な湖上をいくら眺めすかして見ても、はるかの沖を流れる桐の一葉など目に入る筈がない。その場で確かに見たのは(略)湖の渚に流れつき漂い浮かぶ一枚の桐の一葉そのものだった。」(『波多野爽波全集』第三巻)実際に目にしたのは、湖畔に流れ着いた桐の葉が、たぷたぷ、渚に漂っている様子だったのだ。また、次のようにも述べている。「湖畔の燈火の下にもまれ漂う桐の一葉に目を凝らしているとき、初秋の湖の殊のほかの暗さを想い、目の前のここの桐の一葉から暗闇の湖上はるかを可成りの速度で流れ続けているであろう、かしこの桐の一葉を瞬時にまなうらに見て取ったのである。」(同)夜の湖を流れている桐の葉は、爽波の心の目が見たものだった。眼前の桐の葉は、湖中の桐の葉に飛躍し、そのイメージは瞬間的に、心の中を過ぎったのである。『湯呑』(1981)所収。(中岡毅雄)


September 1292013

 新涼や夕餉に外す腕時計

                           五十嵐秀彦

井隆の『静かな生活』に「腕時計せぬ日しばしば手首みる小人(こびと)がそこにゐた筈なんだ」という一首がある。腕時計は毎日仕事にゆく生活をしている人にはなくてはならない小道具。分割された時間に動く自分を縛るものでもある。岡井の短歌は手首で時を刻む腕時計そのものを勤勉な小人の働く場所と見立てのだろうが、「腕時計」をはずすときは自分の時間を取り戻すときでもある。掲句では、家族とともに囲む夕餉に腕時計をはずす、その行為自体に新涼の爽やかさを感じさせる。腕時計と言えばベルトも革製のものとメタルのものがあるが、少し重さを感じさせるメタルの質感がこの句の雰囲気にはあっているように思う。昼の暑さが去り、めっきり涼しくなった夕餉時、ひと仕事終えた解放感とともに、食卓に整えられた料理への食欲も増すようである。『無量』(2013)所収。(三宅やよい)


September 1192013

 かきくわりんくりからすうりさがひとり

                           瀬戸内寂聴

字を当てれば「柿榠樝栗烏瓜嵯峨一人」となろう。一読して誰もが気づくように、四つの果実の「K」音がこころよい響きで連続する。しかもすべて平仮名表記されたやわらかさ。京都・嵯峨野の寂庵に住まいする寂聴の偽りない静かな心境であろう。秋の果実が豊富にみのっている嵯峨にあって、ひとり庵をむすんでいることの寂寥感などではなく、みのりの秋のむしろ心のやすらかさ・感謝の気持ちがにじんでいる、と解釈すべきだろう。「さがひとり」の一言がそのことを過不足なく表現している。この句を引用している黒田杏子によれば、この俳句は「二十数年も前にNHKハイビジョンの番組で画面に大きく出た」もので、愛唱している女性が何人もいるという。寂聴は高齢にもかかわらず、今も幅広く精力的に活躍している人だが、杏子は昭和六十年以来、寂庵での「あんず句会」の第一回から選者・講師をつとめて親交を結んでいる。寂聴句のことを「その俳句も私俳句であり、世にいう文人俳句という分類にははまらない」と指摘している。寂聴句には他に「御山(おんやま)のひとりに深き花の闇」がある。黒田杏子『手紙歳時記』(2012)所載。(八木忠栄)




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