東京地方も雨。一雨ごとに涼しくなってくれるかどうか。(哲




2013ソスN9ソスソス4ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 0492013

 橋多き深川に来て月の雨

                           永井龍男

川…江東区一帯には河川や運河が多い。したがって橋の数もどれほどあるのか詳しくは知らないけれど、大小とりまぜて多いはずである。まだ下町情緒が濃く残っていた時代、月をめでながら一杯やろうと意気ごんで深川へやって来たのだろう。ところが、あいにく雨に降られてせっかくの名月が見られない。あるいは雨はこやみになって、月かげがかすかに見えているのかもしれない。そうした情緒も捨てたものではないだろうけれど、やはりくっきりとした名月を眺めたいのが人情。下五を「雨月かな」とか「雨の月」などと、文字通り月並みにおさめずに「月の雨」としたことで、句がグンと引き締まった。口惜しさも嫌味なくにじんでいる。「秋の暮」ではなく「暮の秋」とするといった伝である。龍男の句は多いが、月を詠んだものに「月知らぬごとく留守居をしてゐしが」「月の沓萩の花屑辺りまで」などがある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


September 0392013

 秋の日に干す沖海女の命綱

                           桑原立生

女には「磯海女」と「沖海女」があり、磯海女は比較的浅い海を潜るため一人でも可能だが、沖海女は船で沖に出てからの作業なので、船を操り、合図を送る相手が必要となる。海女は海中の作業のなか、呼吸の限界で浮上の合図を船上へと送り、合図を感じたらパートナーは命綱を一気に引き上げる。20メートルにもなるという命綱を引き上げるには、わずかなタイミングが命取りになるため、命綱の多くは家族が担当するという。文字通り命をつなぐ綱の実物は驚くほど華奢である。透き通るような秋の日差しのなか、干されるなんのへんてつもないロープの名が命綱だと知った瞬間、それはかけがえのないものとなる。へその緒という命綱で母とつながっていた彼方の記憶が、ふと脳裏をよぎる。『寒の水』(2013)所収。(土肥あき子)


September 0292013

 こときれてゆく夕凪のごときもの

                           五十嵐秀彦

集では、この句の前に「眠りつつ崩るる夏や父の肺」が置かれているので、同じく父上の末期の様子を詠んだものだろう。島崎藤村が瀕死の床にあった田山花袋に「おい、死ぬってどんな心持ちだ」と呼びかけた話が残っているが、私も年齢のせいで人の死に際には関心が高くなってきた。夢の中で自分の死をシミュレートしていることに、はっと気づいて目覚めたりもする。夏の夕暮れの海岸地域では、海からの風が嘘のようにぱたっと落ちて、息詰まるような暑さに見舞われるが、人生の最後にもまたそのような状態になるのだろうか。つまり、傍目には死の病の苦しみがばたっと止んだように見え、しかし高熱だけは残っていて、そこから死が徐々に確実に忍び寄ってくる。と、作者にはそう思えたのだ。他者の死にはこれ以上深入りできないわけだが、この「風立ちぬ いざ生きめやも」とは正反対のベクトルがはっきりしているという意味で、私にとっては印象深い抒情句となった。『無量』(2013)所収。(清水哲男)




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