九月ですね。今年もあと四ヶ月。穏やかな日々でありますように。(哲




2013ソスN9ソスソス1ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 0192013

 海風に筒抜けられて居るいつも一人

                           尾崎放哉

正十四年八月二十四日。放哉は、小豆島、南郷庵に入ります。翌年、四月七日午後八時、ここで死去。享年四十二。この七ヶ月半に残されたのは、二百二句。庵の入り口の石段を三つ四つ上ると、低い塀の上に大松が一本枝を垂れていて、この大松の根方に、荻原井泉水筆の「入れものが無い両手で受ける」の小さな句碑があります。『入庵雑記・海』冒頭を抜粋すると「庵に帰れば松籟颯々、、至つてがらんとしたものであります。芭蕉が弟子の句空に送りました句に『秋の色糠味噌壺も無かりけり』とあります。、、全くこの庵にも、糠味噌壺一つ無いのであります。、、時々、ふとした調子で、自分はたつた一人なのかな、と云ふ感じに染々と襲はれることであります。八畳の座敷の南よりの、か細い一本の柱に、たつた一つの脊をよせかけて、其前に、お寺から拝借して来た小さい低い四角な机を一つ置いて、、一日中、朝から黙つて一人で坐つて居ります。」文中の「一人、一つの、一つ、一日中、一人」という単数形に、詩人を生きた証を読みます。掲句は「海風に筒抜けられて居る」で切れます。人は、口から肛門までが一本の管ですが、放哉は、自身を一本の筒ととらえ、海風が自身の内側をなでて通過する実感で、自身が「居る」ことを確かめています。『笈の小文』の風羅坊が、また一人、ここで海風を受けて居ます。『尾崎放哉全集』(1972)所収。(小笠原高志)


August 3182013

 露の身を置く宮殿の鏡の間

                           大木さつき

の身、露の世、露けし、など人生の儚さにたとえて詠まれることの多い、露。未だそういう露の句は自分ではできないのだが掲出句の、露の身、には実感があるように思えた。栄華の歴史を象徴する美しい宮殿の大広間、壁も天井も鏡が張り巡らされているのだろうか。そんな異国の色彩の中に、ぽつんと映る自分の姿がある。しばらくそこに立っているうちにふと浮かんだ、露の身、であったのだろう。ドイツの旅十句のうちの一句、他に〈古城はるか座せば花野に沈みけり〉〈身に入むやみづうみにある物語〉など。『遙かな日々』(2007)所収。(今井肖子)


August 3082013

 玄関のただ開いてゐる茂かな

                           波多野爽波

でもない光景のようだが、中七の「ただ開いてゐる」に注意。「開いてをりたる」ならば、単なる情景描写だが、「ただ開いてゐる」と表現すると、通常の空間は、異次元の空間に変化する。玄関の外には、虚無感ただよう生々しい茂りが広がっているのだ。何気ない日常から切り取られた風景は、作者の心の中で、不気味さを増している。『骰子』(1986)所収。(中岡毅雄)




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