オールスターのファン投票のほうが、まだ味がありますね。(哲




2013ソスN7ソスソス19ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

July 1972013

 木五倍子折るために掴まる木を探す

                           青柳志解樹

人の平均年齢が高いと必然的に俳句は老いを詠むことになる。別に老いを詠まねばならないということはないが、自分に正直な詠み方であればそうなる。老人が老いを詠まないという選択肢があるとして、では何を詠むか。老人がモダンを詠むと往々にして古いモダンになる。かつての前衛ふうやかつてのモダンふうを詠むのは読者から見ると痛々しいことになる。「新しい歌を歌います」と宣言してピンクレディを歌うようなものだ。では、老人は普遍的なものを希求して詠むか。そうするとお決まりの「花鳥諷詠」が待ち受けている。「岸壁の母」の方がまだましとはとても言えない。では老人は生きてきた経験と信念を披瀝することにして後進のために社会正義や倫理を詠うか。これは最悪で説教爺になる。どっちに行ってもあんまり良いことはなさそうだ。だから老人は自分の老いを正直に詠むのがいい。木五倍子(きぶし)を折るために掴まる木を探すのは自分に正直な述懐だ。なんで木五倍子を折るの?と問われれば、いいじゃないか、そのくらい。余計なお世話だ!と怒ってみせるしかない。『里山』(2013)所載。(今井 聖)


July 1872013

 真夏日の名画座冷えてゆくばかり

                           笠井亞子

天下を避けてふらりと入った名画座。話題の新作でもなく、もとより観客の数は少ない。外は焼けるような暑さなのに人気のない映画館の冷房はしんしんと冷えてゆくばかり。ホームビデオの普及で上映された新作を数か月遅れでビデオ屋に並んでいるのを借りてきて、ソファーに寝転がって見ることが多い。日々雑用に追われてなかなか映画館へ行けないが、他の観客とともに暗闇の中で大画面を見上げる映画館の雰囲気は捨てがたい。昔の映画は前編と後編に分かれていて、フィルム交換の時間にロビーに出てコーラを飲んだりトイレに並んだりと悠長なものだった。フィルムが切れたら映写技師が修復をして再開していたっけ。(こんな話をすると年がわかる!)いまやタブレット端末で、電車の中でも映画を見ることができる。銀座の名画座も閉館してしまった。やがて映画館そのものが消えてしまうかもしれない。掲句の「名画座」の響きに冷房の効きすぎた映画館へ一昔前の映画を見に行きたくなった。『東京猫柳』(2008)所収。(三宅やよい)


July 1772013

 この先を考へてゐる豆のつる

                           吉川英治

のように詠まれてみれば、豆にかぎらず蔓ものは確かに「さて、これからどちらの方向へ、どのように伸びて行こうか…」と思案しているようにも見える。また、作家としての英治自身の先行き、といった意味が込められているようにも読める。マメ科の蔓植物は多種ある。考えながらも日々確実に伸びて行くのだから、植物の見かけによらない前向きの生命力には、目を見張るばかりである。豆ではないが、わが家のプチ・モンステラなどは休むことなく、狭い部屋で日々その先へ先へと蔓を伸ばしていて、驚くやら感心するやらである。蔓ではないが、天まで伸びる「ジャックと豆の木」を思い出した。壮大な時代小説を書いた英治は多くの俳句を残したが、それにしても「豆のつる」という着眼は卑近でほほえましいし、「考へてゐる」という擬人化には愛嬌が感じられる。もちろんそのあたりは計算済みなのであろう。何気ないくせに、思わず足を止めてみたくなる一句である。ほかに「蝉なくや骨に沁み入る灸のつぼ」がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)




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