朝夕が涼しくなった。と言うと、なんだか初秋みたいだけど。(哲




2013ソスN7ソスソス17ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

July 1772013

 この先を考へてゐる豆のつる

                           吉川英治

のように詠まれてみれば、豆にかぎらず蔓ものは確かに「さて、これからどちらの方向へ、どのように伸びて行こうか…」と思案しているようにも見える。また、作家としての英治自身の先行き、といった意味が込められているようにも読める。マメ科の蔓植物は多種ある。考えながらも日々確実に伸びて行くのだから、植物の見かけによらない前向きの生命力には、目を見張るばかりである。豆ではないが、わが家のプチ・モンステラなどは休むことなく、狭い部屋で日々その先へ先へと蔓を伸ばしていて、驚くやら感心するやらである。蔓ではないが、天まで伸びる「ジャックと豆の木」を思い出した。壮大な時代小説を書いた英治は多くの俳句を残したが、それにしても「豆のつる」という着眼は卑近でほほえましいし、「考へてゐる」という擬人化には愛嬌が感じられる。もちろんそのあたりは計算済みなのであろう。何気ないくせに、思わず足を止めてみたくなる一句である。ほかに「蝉なくや骨に沁み入る灸のつぼ」がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


July 1672013

 飛石に留め石苔の庭涼し

                           鳥井保和

本の庭園の美しさは植栽であり、水であり、そして石も大きな役割を持つ。庭石や蹲(つくばい)、石灯籠、石橋、石畳、どれも日本人の感性が導き出した実用と鑑賞の美である。留め石は関守石、極石、踏止石とも呼ばれ、茶道の作法では露地の飛石や敷石の上に置かれる。安定のよい丸い石に黒の棕櫚縄を十文字に掛けたもので、初めてみたときはなんのいたずらかと思うような可愛らしい姿だが、しかしこの石には、ここから先入るべからず、の問答無用の強い意思を持つ。「立入禁止」の四文字より、どれほど簡素で、粋で、そして美しいものであろうか。また、岐路では一方を塞ぐことで、正しい道を案内する意味も持たせることができる。掲句の下五、「庭涼し」が水をたっぷりと打った露地に馥郁とした風を誘っている。『星天』(2013)所収。(土肥あき子)


July 1572013

 山に石積んでかへりぬ夏休

                           矢島渚男

い返してみれば、夏休みは、それがあること自体が重荷であった。戦争の余韻がまだ生活のなかに染みついていた時代であり、夏休みといっても、手放しの解放感が味わえるわけではなかった。ましてや暮していたのが本屋もないような山奥の農村とあっては、およそ娯楽に通じる施設があるはずもなく、学校が休みになった時間だけ、家での手伝い仕事が増える勘定だった。だが、それだけを重荷というのではない。いちばんの重荷は、夏休みを夏休みらしく過ごせないことが、あらかじめ定められていたことだった。学校からはいっちょまえに宿題や自由研究の課題が示されていたし、教師たちは口をそろえて、夏休みらしい成果をあげるようにと私たちを激励したものだった。が、そんな成果へのいとぐちさえ見いだせないというのが、子供たちの生活実態であり、それが高じて焦りや劣等感にもつながっていき、長期休暇の成果達成は慢性的な強迫観念のようにのしかかっていたのだった。いまこの句を読んで、そんなことを思う。この積まれた石は、子どもの成果達成への憧れを見事に象徴している。夏休みらしいことが何ひとつできずにいる子どもの焦燥感が、この空しい石の集積である。子どもは、大人よりもよほどおのれの悲しみのありかを知っている。『翼の上に』(1999)所収。(清水哲男)




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