突然の雷鳴と激しい雨。このところ毎日夕刻に。真夏ですねえ。(哲




2013ソスN7ソスソス9ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

July 0972013

 帆を張れば船膨らみし青葉潮

                           河原敬子

日、日本丸の総帆展帆(そうはんてんぱん)を見に行く機会があった。青空の下、一時間ほどかけて乗組員たちの掛け声とともに29枚すべての帆を広げた帆船は、見ているものの誰もが息をのむ美しさだった。それはまるで、大きな蝶が羽化しているさまを目の当たりにしているような、帆船が帆船として息を吹き返しているような、なんとも不思議な時間が海の上に流れていた。かつてはその姿の美しさから「太平洋の白鳥」と称されたとの説明を読み、そのとき感じたどこと言えない胸のわだかまりがなんであるかに気づいた。それは、船が繋留されたままであるという不自然さだった。太平洋の白鳥は岸に繋がれたまま羽を広げていたのだ。動物園に飼われた雄々しい動物を見るときに感じる胸の痛みであった。総帆展帆して帆を風に膨らませても進むことは叶わないのだ。いつか大海に浮かぶ帆船の本当の美しさを見ることはできるだろうか。〈サングラス外しほんたうの海の色〉〈花の名を後ろ送りに尾瀬の夏〉『恩寵』(2013)所収。(土肥あき子)


July 0872013

 雲の峰過去深まつてゆくばかり

                           矢島渚男

そり立つ入道雲。同じ雄渾な雲を仰ぐにしても、若いころとはずいぶん違う感慨を覚えるようになった自分に気がつく。若いころには、別に根拠があるわけではないが、真っ白な雲の峰に、あるいは雲の向こうに、なにか希望のようなものの存在が感じられて、気分が高揚したものだった。それがいつの間にか、そういう気分がなくなってきて、希望的心情は消え果て、ただ意味もなく「ああ」とつぶやくだけのことで終わってしまうのがせいぜいである。自然の摂理で仕方はないけれど、老人になってくると、自然にものの見方は変化してくる。そのことに作者はもう一歩踏み込んで、希望を覚えないかわりに、つまり未来を思わないかわりに、「過去」が深まってゆくのだと言い放つ。その「過去」が豊潤なものであるかないかは別にして、老いはどんどんとおのれの「過去」を深めてゆくばかりなのである。しかも、その気分は悲しいとか哀れだとかという感情とは無関係に、わいてくる。ただ「ああ」というつぶやきとなって、自然にわいてくるのだ。そういう意味で、この句は老いることの内実を、そのありようを淡々と描いていて秀逸だ。刻々と深まりゆく過去を覚えつつ、老いた人はなお生きてゆく。何事の不思議なけれど、老いた身には、そういうことが起きてくる。『船のやうに』(1994)所収。(清水哲男)


July 0772013

 浴衣着てロールキャベツは大口で

                           火箱游歩

いうちに、ロールキャベツを食べたい。作りたい。そして僕は、この夏、初めて浴衣に袖を通して、ロールキャベツを丸ごと、大口をあけて食べるんだ。俳句を読んで、まれに、それを生き方にとり入れられる場合があります。句のとおりに生きられる句。それは、かりそめながら、人生のお手本といえるでしょう。よく、酒場のトイレで、拙い筆文字の箴言らしきひらがなを目にしますが、生き方を臆面もなく語り文字にされることに気恥ずかしさを感じながら抵抗してきました。しかし、掲句であれば、そのとおりにやってみたいと思います。まずは、一人で、浴衣を着て、ロールキャベツを大口で食ってみます。うまくできたら、俳句の友を招待して、「第一回、ロールキャベツ大口浴衣会」を開きます。掲句にもどって、浴衣も、ロールキャベツも、身を包んで納めているところに品があります。『雲林院町』(2005)所収。(小笠原高志)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます