蒸し暑い日がつづいています。からっとした暑さ希望。(哲




2013ソスN7ソスソス5ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

July 0572013

 本を買い苺の箱と重ねもつ

                           田川飛旅子

あこれぞ「写生」だ。苺の必然性を問題にすると苺は苺らしくあらねばならず、この句の場合だと苺の箱の大きさが本の大きさとちょうど合っているというような議論になる。あるいは赤い色が鮮烈だとか。みんな後講釈に思える。箱の大きさが本と重ねもつことができる大きさでそれが即ち季語であれば御の字ということになる。たとえば苺の箱の代りに玩具の箱だと大きさもぴったり、韻律もぴったり、子供へ買ったという生活感も出るが、季語になりませんからな。俳句にはなりませんな。ということになる。どこかおかしいような気がする。季語が季節感のために必要ならそもそも冬でもスーパーで売っている苺は季節感を持つのか。苺は夏が旬だとしてもなぜそんなことが絶対的教条になるのか。写生というのは目の前のものをよくみて写すことだ。今を切り取ることだ。田川さんはそういうところを攻めた俳人。この句にもそんな主張がアイロニーのように込められている。『花文字』(1955)所収。(今井 聖)


July 0472013

 いっぱいの打水宇宙ステーション

                           紀本直美

いた庭に打水をする。水が黒い後になって点々と敷石に散り、土を濡らし、庭木の葉を濡らし、湿った水の匂いが立ち上る。マンション住まいになってから如雨露で植木に水をやることはあっても、庭に打水をする。玄関の掃除のあとにちょいと水を撒く、あの気持ちよさは味わえずにいる。それにしても打水から宇宙ステーション。この大胆な飛び方に脱帽。俳句の枠組みに頭を縛られていると出てこない発想だ。確かに点々と乾いた土に広がる水の跡は暗黒の宇宙にさんざめく星々のきらめき。そして回転しながら水を撒いてゆく私そのものが宇宙ステーションなのかもしれない。そんな想像に身をゆだねて勢いよく水を撒けば、ますます打水が楽しくなりそうだ。『さくさくさくらミルフィーユ』(2013)所収。(三宅やよい)


July 0372013

 夏の旅雑技(サーカス)の象に会ひてより

                           財部鳥子

性六人(高橋順子、嵯峨恵子、他)による歌仙「上海渡海歌仙・雑技の巻」の発句である。いずこのサーカスにせよ、サーカスの〈花〉は何といっても象である。馬や熊、ライオンなど多くの動物が登場しても、あの巨体でのっそりとけなげな芸を披露してくれる象こそ、サーカスの花形であることはまちがいあるまい。上記の歌仙に付して森原智子が「いつか中国旅行の途次、財部鳥子、高橋順子といった方たちと歌仙を捲いたことがあった…」と書いている。この歌仙全体を読みこんでみると、遣われている言葉から推して、どうやら中国旅行に出かけたときの成果のように思われる。この発句は旅先上海への挨拶であろう。私事になるが、十数年前に鳥子を含む詩人たちで中国を公式訪問した際、サーカスではないけれど、上海雑技団のいくつかの曲芸などの舞台公演を見て、その高度なワザに度肝をぬかれた思い出がある。掲句は、やはり「象に会ひて」より上海雑技(サーカス)は始まり、旅が始まったということなのだろう。どこかしら夏の旅心も異国にあって、うれしそうにはずんで感じられる。歌仙での鳥子の俳号は杜李子。同じ歌仙の「月」の座で、杜李子は「満月をそのままにして子は眠り」と付けている。『歌仙』(1993)所収。(八木忠栄)




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