「増俳」も、いつの間にやら18年目に入っています。光陰矢の如し。(哲




2013ソスN7ソスソス3ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

July 0372013

 夏の旅雑技(サーカス)の象に会ひてより

                           財部鳥子

性六人(高橋順子、嵯峨恵子、他)による歌仙「上海渡海歌仙・雑技の巻」の発句である。いずこのサーカスにせよ、サーカスの〈花〉は何といっても象である。馬や熊、ライオンなど多くの動物が登場しても、あの巨体でのっそりとけなげな芸を披露してくれる象こそ、サーカスの花形であることはまちがいあるまい。上記の歌仙に付して森原智子が「いつか中国旅行の途次、財部鳥子、高橋順子といった方たちと歌仙を捲いたことがあった…」と書いている。この歌仙全体を読みこんでみると、遣われている言葉から推して、どうやら中国旅行に出かけたときの成果のように思われる。この発句は旅先上海への挨拶であろう。私事になるが、十数年前に鳥子を含む詩人たちで中国を公式訪問した際、サーカスではないけれど、上海雑技団のいくつかの曲芸などの舞台公演を見て、その高度なワザに度肝をぬかれた思い出がある。掲句は、やはり「象に会ひて」より上海雑技(サーカス)は始まり、旅が始まったということなのだろう。どこかしら夏の旅心も異国にあって、うれしそうにはずんで感じられる。歌仙での鳥子の俳号は杜李子。同じ歌仙の「月」の座で、杜李子は「満月をそのままにして子は眠り」と付けている。『歌仙』(1993)所収。(八木忠栄)


July 0272013

 紙袋に子犬をもらひ日日草

                           小谷延子

年1月に12年飼っていた三毛猫を亡くし、しばらく味気ない生活を送っていたが、先月、三毛と白黒の姉妹を引き取った。2匹は一向に緊張する様子もなく、移動中もキャリーバックのなかでもくんずほぐれつ動き回る。そんな様子を思い出し、掲句にまず驚いたのは紙袋である。猫だったらそれはもうたいへんな事態になることは必至であろう。おそらくこの子犬、血統書などとは縁遠く、生まれちゃったからもらってくれない?という願いのもとに作者の手に渡ったのだろう。それも、たまたま立ち寄った行きがかり上という気配すらある。しかし、日日草の斡旋によって、双方にとって幸せな出会いだったことがわかる。紙袋のなかでじっと不安そうにしている子犬も、すぐに飼い主になつき、新しい散歩道で新しい友達に出会うことだろう。暑さに強く、次々と鮮やかな花を咲かせる日日草が、子犬の健やかな成長を象徴している。『楓の実』(2013)所収。(土肥あき子)


July 0172013

 木苺やある晴れた日の記憶満ち

                           矢島渚男

う木苺の盛りは過ぎただろうか。気がつけば、木苺を見なくなってから久しい。子どもの頃には山道のあちこちに自生していたから、学校からの帰り道、空の弁当箱にぎっしりと詰めて帰って、おやつ代わりにしたものだった。もっとも、弁当箱の中でつぶれて汗をかいたような木苺は、そんなに美味ではなかったけれど。そんな体験のない若い人には、この句の良さはわかるまい。字面上の意味は誰にでもわかるけれど、木苺という季節の産物とおのれの記憶とが、このようにしっかりと結びつくという心的構造は理解できないはずだ。木苺に限らず、季節の産物に記憶がしみ込むというようなことは、よほど自然が身辺に豊かでなければ起こり得ないからである。図鑑や歳時記なんぞで木苺を検索するような時代になってしまっては、とうてい無理な相談である。そう考えれば、俳句の季語が持つ機能の一つである季節の共有感覚も、いまや失われたと言ってもよいかもしれない。作者や私の木苺と若い読者の木苺とで共有できるのは、その色彩や形状くらいのものだからだ。つまり決して大げさではなく、現代の木苺は鑑賞するものではあっても、生活とともにあるわけではないから、さながら季節の記号のような存在と化してしまっている。それが良いとか悪いとかと言う前に、このようでしかあり得なくなった現代の私たちの環境には、ただ呆然としてしまうばかりだ。『百済野』(2007)所収。(清水哲男)




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