今年も後半へ。ゆったりとした時間が流れてほしいものです。(哲




2013ソスN7ソスソス1ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

July 0172013

 木苺やある晴れた日の記憶満ち

                           矢島渚男

う木苺の盛りは過ぎただろうか。気がつけば、木苺を見なくなってから久しい。子どもの頃には山道のあちこちに自生していたから、学校からの帰り道、空の弁当箱にぎっしりと詰めて帰って、おやつ代わりにしたものだった。もっとも、弁当箱の中でつぶれて汗をかいたような木苺は、そんなに美味ではなかったけれど。そんな体験のない若い人には、この句の良さはわかるまい。字面上の意味は誰にでもわかるけれど、木苺という季節の産物とおのれの記憶とが、このようにしっかりと結びつくという心的構造は理解できないはずだ。木苺に限らず、季節の産物に記憶がしみ込むというようなことは、よほど自然が身辺に豊かでなければ起こり得ないからである。図鑑や歳時記なんぞで木苺を検索するような時代になってしまっては、とうてい無理な相談である。そう考えれば、俳句の季語が持つ機能の一つである季節の共有感覚も、いまや失われたと言ってもよいかもしれない。作者や私の木苺と若い読者の木苺とで共有できるのは、その色彩や形状くらいのものだからだ。つまり決して大げさではなく、現代の木苺は鑑賞するものではあっても、生活とともにあるわけではないから、さながら季節の記号のような存在と化してしまっている。それが良いとか悪いとかと言う前に、このようでしかあり得なくなった現代の私たちの環境には、ただ呆然としてしまうばかりだ。『百済野』(2007)所収。(清水哲男)


June 3062013

 富士にのみ富士の容に雲涼し

                           富安風生

士山が、世界遺産になりました。おめでとう。信仰の対象と芸術の源泉として文化的に評価されました。後者に関しては、万葉集以来、北斎、広重、太宰にいたるまで、各時代の文芸と美術のモチーフでありつづけています。信仰の対象としての富士講は、北口本宮富士浅間神社に近世から近代にかけての碑が多く残されていますが、「六根清浄」の杖をつきながら唱和する信仰登山は、今ではほとんど見られません。信仰を対象とする富士の場合は頂上を目指し、その霊験をいただきに行くという修験であり、芸術の源泉としての富士は、下界から見上げた憧憬ということでしょうか。掲句は、『自選自解』二百句の中の最後の句で、昭和四十四年、83歳の作。十数年来、夏に逗留する山中湖畔から見る富士山です。この年、ようやく『富士百句』という「体裁だけは分に過ぎた豪華本を作った」と云い、富士に関して、「数だけは人より多く詠みためたかも知れないが、あの程度でわたしはもう草臥れて敗退した感がある」と加え、掲句の自解では、「一天晴れて富士にだけ、稜線に沿って容(かたち)正しく富士をつつむ白い雲、こんなものでは駄目だ。今年ももう一踏張りとは思っている」と自嘲しています。しかし、作者が何と言おうとも、五七五の中に富士を二回出している掲句に魅かれます。なぜなら、上五「富士にのみ」には、三つの景が詠まれているからです。一つ目は、今は雲に隠れて見えない現在の富士、二つ目は、今は雲に隠れている所にいつも見えていた過去の富士、三つ目は、富士以外の麓や晴れ渡っている空の景色。そんな野暮な分析は脇に置いて、「富士にのみ富士の容に」を読むだけで、富士のかたちが立ち現れてきています。日本的伝統には、抽象的な唯一神はなかったけれど、具体的に目に見えて、拝み敬い描き語らう対象がありました。月にむら雲のように、雲につつまれた富士と遊ぶのは太宰の「富嶽百景」にもあり、掲句同様、横綱と大相撲をするちびっ子のような無邪気さがあります。日本の横綱が、世界の番付に入ったことを素直によろこびます。そういえば、北の富士、千代の富士、富士桜。富士を冠した力士はやはり魅せる相撲でした。『自選自解 富安風生句集』(1969)所収。(小笠原高志)


June 2962013

 お面らの笑みて祭を売れ残る

                           坊城俊樹

どもの頃、お祭りは数少ない楽しみのひとつだった。お小遣いとは別にもらえる、当時は直径二十五ミリと大きかった五十円玉を握りしめて、夜店の出ているお地蔵さんまでの道を歩いている時のなんと幸せだったことか。必ず買うのは、ハッカパイプと水風船、綿あめを妹と半分ずつ食べながら歩いていると、いつか夜店の端に着いてしまう。お面はそのあたりに売られていたような気がする。当時、欲しいと思った記憶はないのだが、セルロイドの匂いと白くて細いゴムの記憶はある。掲出句の、お面ら、には、慈しみと郷愁が入り交じる。祭りの翌日、ハッカパイプにお砂糖を入れてみても何の味もせず、ねだって買ってもらったお面は、ぼんやり笑いながら畳の上にころがっていたことだろう。『日月星辰』(2013)所収。(今井肖子)




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