午後、友人との飲み会。といってもだんだん飲めなくなってきた。(哲




2013ソスN6ソスソス28ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 2862013

 はしれ雷声はりあげて露語おしう

                           古沢太穂

ず「はしれ雷」がいいな。俳人は季語を気にして歳時記を携行する。「それ季語の傍題(副題)にあるから大丈夫」なんていう会話は日常だ。例えば梅雨という季語なら、僕の持っている文庫本の歳時記には走り梅雨や梅雨夕焼など傍題が11個並んでいる。その中から自分の句に合う傍題を選んでくる。それは既製服を選んでくるということだ。たった17音しかない詩形のまあ5音を、吊ってある棚から選んでくる。言葉との格闘、ひいては自己表出の戦線を自ら狭めていることにならないか。「はしれ雷」は新鮮、斬新。この作者の個人的な言葉になっている。「おしう」は「教う」。旧文法で現代仮名遣いは太穂さんの特徴。マルクス主義の信奉者でその党派の人。古典の教義で現在を変えようとした太穂さんらしい選択だ。『古沢太穂』(1993)所収。(今井 聖)


June 2762013

 太る妻よ派手な夏着は捨てちまへ

                           ねじめ正也

ばさんを漫画に描くときにはむっちりした二の腕とたっぷりした贅肉をつけた体型で口のあたりにくっきりとした法令線を入れればそれらしくなる。パターンの描き方だが自分がその年齢になってみると何を食べてもすぐ太ってしまうのに閉口している。掲句の妻も中年過ぎてムクムク太ってきて若い頃似合っていた派手な色柄の夏着が似合わなくなったのだろう。花模様や大柄な模様は身体の肉付きをことさらたっぷり見せてしまうから厄介だ。この頃は昔ほど服装に年代層の差はなくなってきたように思うが、若い頃買ったものは型も古びており、何よりその服を着ていた若い頃の顔や体型との落差がありすぎて哀しい。端からその様子を見ている夫が「捨てちまへ」とかける言葉は妻に対する愛情なのだ。『蠅取リボン』(1991)所収。(三宅やよい)


June 2662013

 百丁の冷奴くう裸かな

                           矢吹申彦

書に「大相撲巡業」とある。俳句だけ読むと「お、何事ぞ!」と思うけれど、大相撲か、ナルホドである。夏のどこかの巡業地で出遭った実際の光景かもしれない。相撲取りの食欲とはいえ、「百丁」はオーバーな感じがしないこともないけれど、一つの部屋ではなく巡業の一行が一緒に昼食をとっているのだろう。二十人いるとしても一人で五丁食べるなら、「百丁」はあながちオーバーとは言えない。大きなお相撲さんたちがそろって、裸で汗を流しながらたくさんの冷奴を食べている。豪儀な光景ではないか。ユーモラスでもある。稽古でほてった裸と冷奴の取り合わせが鮮やかである。「百丁の冷奴」を受けた相撲取りたちの「くう裸かな」が、無造作に見えて大胆でおおらかである。申彦はよく知られたイラストレーターだが、俳句は三十歳をむかえる頃から始めたというから、今や大ベテラン。「詩心のない者は俳句を遊べても、俳句に遊べない」と述懐している。「遊べても……遊べない」そのあたりがむずかしい。俳句関連著書に『子供歳時記ー愉快な情景』がある。俳号は「申」から「猿人」。他に「想うこと昨日に残して鯵たたく」がある。「俳句αあるふぁ」(1994 年夏号)所載。(八木忠栄)




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