June 102013
君はただそこにいるのか茄子の花
岡本敬三
そういう人に出会ったことはないが、私は子供のころから「茄子の花」が好きだった。低く咲く地味な花だが、よく見れば凛とした可憐な風情がただよっており、色彩も上品である。この句は、そうしたたたずまいの茄子の花に「君」と呼びかけていると解釈できるが、もう一方では、茄子の花のように控えめではあるが凛とした存在である人を念頭に詠まれたともとれる。作者の中では、おそらくそれらは同時に存在しているのではあるまいか。「そこにいるのか」と問われるほどに目立たない存在。そういう存在にこそ関心を抱き、敬愛の念を示す作者の心。世の中、こういう人ばかりだったらどんなに平和で静かなことだろうか……。作者の岡本敬三君は、この六月三日に他界した。六十二歳。彼こそがまず「そこにいたのか」と言ってもよいような控えめな人柄であった。合掌。俳誌「ににん」(10号・2003年4月)所載。(清水哲男)
June 092013
紫陽花や薮を小庭の別座鋪
松尾芭蕉
元禄七年(1694)五月の作。同年十月死去ですから、最晩年の句です。上方への旅の前に、同じ深川に住む門人の子珊(しさん)亭で詠んだ発句で、「別座鋪」(べつざしき)は、母屋から離れた別棟の小座敷のこと。薮をそのまま庭にして、別座敷から見える紫陽花にも野趣があってよしとする、師から弟子への挨拶句にとれます。旅人として、ますらをぶりを生きた芭蕉には、居心地のよい別座敷でしょう。子珊は、掲句を発句とした底本『別座鋪』の自序に「翁、今思う体(てい)は、浅き砂川を見るごとく、句の形・付心(つけごころ)ともに軽きなり。(略)庭の夏草に発句を乞ひて、はなしながら歌仙終わりぬ。」とあります。芭蕉翁の軽みを「浅き砂川をみるごとく」とたとえたところが門人の眼で、軽みとは、身近に目にすることができながら、そこに足を踏み入れるとすぐに濁ってしまうような危ういはかなさをもはらんだうえで、清澄な明るさを保っていることのようにうけとりました。また、掲句の芭蕉は、子珊亭の別座敷以外に何物も持ち込んでいません。その身軽さも、軽みの一つと思われます。『芭蕉全句集』(2010・角川ソフィア文庫)所収。(小笠原高志)
June 082013
他人事のやうに首振る扇風機
大和田アルミ
子供の頃、ありとあらゆる文字が人の顔に見えて不思議な気分になったことがある。昼、という字がペンギンに見えてしかたなかったこともあるが、これは形が似ているからか。いずれにしても、ひらがなが様々な表情でこちらを見ているような感覚は今でもどこかに残っているが、その感覚をふと思い出した。掲出句、扇風機が首を振る、というのは、自然に浮かぶ擬人だが、安易な擬人に終わっていないのは、他人事のやうに、という表現だ。他人事、もまた擬人と言えるのだが、人になぞらえているというのではなく、淡々と動く扇風機そのものから感じとっている作者なのだろう。「俳句 唐変木」(2009・5号)所載。(今井肖子)
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