「あまちゃん」が人気だそうな。一度も見たことがないと威張る。(哲




2013ソスN6ソスソス9ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 0962013

 紫陽花や薮を小庭の別座鋪

                           松尾芭蕉

禄七年(1694)五月の作。同年十月死去ですから、最晩年の句です。上方への旅の前に、同じ深川に住む門人の子珊(しさん)亭で詠んだ発句で、「別座鋪」(べつざしき)は、母屋から離れた別棟の小座敷のこと。薮をそのまま庭にして、別座敷から見える紫陽花にも野趣があってよしとする、師から弟子への挨拶句にとれます。旅人として、ますらをぶりを生きた芭蕉には、居心地のよい別座敷でしょう。子珊は、掲句を発句とした底本『別座鋪』の自序に「翁、今思う体(てい)は、浅き砂川を見るごとく、句の形・付心(つけごころ)ともに軽きなり。(略)庭の夏草に発句を乞ひて、はなしながら歌仙終わりぬ。」とあります。芭蕉翁の軽みを「浅き砂川をみるごとく」とたとえたところが門人の眼で、軽みとは、身近に目にすることができながら、そこに足を踏み入れるとすぐに濁ってしまうような危ういはかなさをもはらんだうえで、清澄な明るさを保っていることのようにうけとりました。また、掲句の芭蕉は、子珊亭の別座敷以外に何物も持ち込んでいません。その身軽さも、軽みの一つと思われます。『芭蕉全句集』(2010・角川ソフィア文庫)所収。(小笠原高志)


June 0862013

 他人事のやうに首振る扇風機

                           大和田アルミ

供の頃、ありとあらゆる文字が人の顔に見えて不思議な気分になったことがある。昼、という字がペンギンに見えてしかたなかったこともあるが、これは形が似ているからか。いずれにしても、ひらがなが様々な表情でこちらを見ているような感覚は今でもどこかに残っているが、その感覚をふと思い出した。掲出句、扇風機が首を振る、というのは、自然に浮かぶ擬人だが、安易な擬人に終わっていないのは、他人事のやうに、という表現だ。他人事、もまた擬人と言えるのだが、人になぞらえているというのではなく、淡々と動く扇風機そのものから感じとっている作者なのだろう。「俳句 唐変木」(2009・5号)所載。(今井肖子)


June 0762013

 巣箱まだ生きてゐるなり倒れ榛

                           中戸川朝人

北と前書きがある。僕はこの風景が史跡多き琵琶湖の北方であることで何かが格別に付加されるとは思わない。どこの場所であろうと見たまま、そのままのこの瞬間にぐいと胸をつかまれるのだ。巣箱は生きていない。巣箱の中に生きているのだ。しかし、地に落ちた巣箱を目にし、その中で鳴いているか動いている小鳥を目にしたとき、作者は巣箱が生きていると言わざるを得ない切迫感にとらわれる。リアリティはまだある。「倒れ榛」だ。タオレハン、タオレハンと口にして言ってみるといかに調子の悪い語呂かということがわかる。榛(はん)は田んぼべりに稲架用にボーっと立っているひょろひょろの木。そんなどこにでもある、草で言えば雑草のような木に生まれた命だ。きれいな音律の下五などいくらでも斡旋できように。演出では届かない世界が示されている。技術を超えた技術が二個所。『巨樹巡礼』(2013)所収。(今井 聖)




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