もはや「空梅雨」と呼んでもいい状態。♪あめあめふれふれ…。(哲




2013ソスN6ソスソス8ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 0862013

 他人事のやうに首振る扇風機

                           大和田アルミ

供の頃、ありとあらゆる文字が人の顔に見えて不思議な気分になったことがある。昼、という字がペンギンに見えてしかたなかったこともあるが、これは形が似ているからか。いずれにしても、ひらがなが様々な表情でこちらを見ているような感覚は今でもどこかに残っているが、その感覚をふと思い出した。掲出句、扇風機が首を振る、というのは、自然に浮かぶ擬人だが、安易な擬人に終わっていないのは、他人事のやうに、という表現だ。他人事、もまた擬人と言えるのだが、人になぞらえているというのではなく、淡々と動く扇風機そのものから感じとっている作者なのだろう。「俳句 唐変木」(2009・5号)所載。(今井肖子)


June 0762013

 巣箱まだ生きてゐるなり倒れ榛

                           中戸川朝人

北と前書きがある。僕はこの風景が史跡多き琵琶湖の北方であることで何かが格別に付加されるとは思わない。どこの場所であろうと見たまま、そのままのこの瞬間にぐいと胸をつかまれるのだ。巣箱は生きていない。巣箱の中に生きているのだ。しかし、地に落ちた巣箱を目にし、その中で鳴いているか動いている小鳥を目にしたとき、作者は巣箱が生きていると言わざるを得ない切迫感にとらわれる。リアリティはまだある。「倒れ榛」だ。タオレハン、タオレハンと口にして言ってみるといかに調子の悪い語呂かということがわかる。榛(はん)は田んぼべりに稲架用にボーっと立っているひょろひょろの木。そんなどこにでもある、草で言えば雑草のような木に生まれた命だ。きれいな音律の下五などいくらでも斡旋できように。演出では届かない世界が示されている。技術を超えた技術が二個所。『巨樹巡礼』(2013)所収。(今井 聖)


June 0662013

 逝く猫に小さきハンカチ持たせやる

                           大木あまり

むたびに切なさに胸が痛くなる句である。身近に動物を飼ったことのある人なら年をとって弱ってゆく姿も、息を引き取るまで見守るつらさを知っているだろう。二度と動物は飼わないと心に決めてもぽっかり穴のあいた不在を埋めるのは難しい。この頃はペットもちゃんと棺に入れて火葬してくれる業者がいるらしいが、小さな棺に収まった猫に小さなハンカチを持たせてやる飼い主の気持ちが愛おしくも哀しい。とめどなくあふれる涙を拭いながら、小さい子供が幼稚園や小学校に行くときの母の気遣いのようにあの世に旅立つ猫にハンカチを持たせてやる。永久の別れを告げる飼い主の涙をぬぐうハンカチと猫の亡きがらに添えられた小さなハンカチ。掲句の「ハンカチ」は季語以上の働きをこの句の中で付与されていると思う。『星涼』(2010)所収。(三宅やよい)




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