東京地方、今日は梅雨らしく雨降りになるらしいけど…。(哲




2013ソスN6ソスソス7ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 0762013

 巣箱まだ生きてゐるなり倒れ榛

                           中戸川朝人

北と前書きがある。僕はこの風景が史跡多き琵琶湖の北方であることで何かが格別に付加されるとは思わない。どこの場所であろうと見たまま、そのままのこの瞬間にぐいと胸をつかまれるのだ。巣箱は生きていない。巣箱の中に生きているのだ。しかし、地に落ちた巣箱を目にし、その中で鳴いているか動いている小鳥を目にしたとき、作者は巣箱が生きていると言わざるを得ない切迫感にとらわれる。リアリティはまだある。「倒れ榛」だ。タオレハン、タオレハンと口にして言ってみるといかに調子の悪い語呂かということがわかる。榛(はん)は田んぼべりに稲架用にボーっと立っているひょろひょろの木。そんなどこにでもある、草で言えば雑草のような木に生まれた命だ。きれいな音律の下五などいくらでも斡旋できように。演出では届かない世界が示されている。技術を超えた技術が二個所。『巨樹巡礼』(2013)所収。(今井 聖)


June 0662013

 逝く猫に小さきハンカチ持たせやる

                           大木あまり

むたびに切なさに胸が痛くなる句である。身近に動物を飼ったことのある人なら年をとって弱ってゆく姿も、息を引き取るまで見守るつらさを知っているだろう。二度と動物は飼わないと心に決めてもぽっかり穴のあいた不在を埋めるのは難しい。この頃はペットもちゃんと棺に入れて火葬してくれる業者がいるらしいが、小さな棺に収まった猫に小さなハンカチを持たせてやる飼い主の気持ちが愛おしくも哀しい。とめどなくあふれる涙を拭いながら、小さい子供が幼稚園や小学校に行くときの母の気遣いのようにあの世に旅立つ猫にハンカチを持たせてやる。永久の別れを告げる飼い主の涙をぬぐうハンカチと猫の亡きがらに添えられた小さなハンカチ。掲句の「ハンカチ」は季語以上の働きをこの句の中で付与されていると思う。『星涼』(2010)所収。(三宅やよい)


June 0562013

 緑陰に置かれて空の乳母車

                           結城昌治

が繁った木陰の気持ち良さは格別である。夏の風が涼しく吹き抜けて汗もひっこみ、ホッと生きかえる心地がする。その緑陰に置かれている乳母車。しかも空っぽである。乗せてつれてこられた幼児は今どこにいるのか。あるいは幼児はとっくに成長してしまって、乳母車はずっと空っぽのまま置かれているのか。成長したその子は、今どこでどうしているのだろう? いずれにせよ、心地よいはずの緑陰にポッカリあいたアナである。その空虚感・欠落感は読者の想像力をかきたて、妄想を大きくふくらませてくれる。若い頃、肺結核で肋骨を12本も除去されたという昌治の、それはアナなのかもしれない。藤田貞利は「結城昌治を読む」(「銀化」2013年5月号)で、「昌治の俳句の『暗さ』は昭和という時代と病ゆえである」と指摘する。なるほどそのように思われる。清瀬の結核療養所で石田波郷と出会って、俳句を始めた。波郷の退所送別会のことを、昌治は「みな寒き顔かも病室賑へど」と詠んだ。『定本・歳月』(1987)所収。(八木忠栄)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます