今週はあまり天気が良くないようだ。そろそろ梅雨入り間近かな。(哲




2013ソスN5ソスソス27ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 2752013

 会ひたしや苗代時の田のどぜう

                           鳥居三朗

も会いたい。苗代時のよく晴れた日の田んぼには、いろいろな生きものが動き回っているのが見えて、子供のころには飽かず眺めたものだった。なかでものろのろとしか動けないタニシと、逆に意外にすばしこい動きをするドジョウとが、見飽きぬ二大チャンピオンだったような……。そんな生きものにまた会いたいと思うのは、しかしその生きものと会いたいというよりも、そうやって好奇の目を輝かしていたころの自分に会いたいということだと思う。そのころのドジョウと自分との関係を、そっくりそのまま再現できたらなあと願うわけだが、しかし厳密に言えば、それはかなわぬ願望である。彼も我もがもはや昔のままではないのだし、取り巻く環境も大きく変わっているからだ。なんの変哲もない句だけれど、この無邪気さは時の流れに濾過された心のありようを感じさせる。なお「どぜう」という表記は誤記だろう。ドジョウの旧かな書きは「どじゃう」でなければならない。「どぜう」は「駒形どぜう」などの、いわば商標用に作られた言葉である。「俳句」(2013年6月号)所載。(清水哲男)


May 2652013

 百合落ちてスローテンポの風となる

                           服部千恵子

りそうでない句です。歳時記数冊で、百合の句数十にあたってみましたが、百合に「落ちる」という動詞を使った句はみつかりませんでした。花瓶や生け花に挿されている百合は、落ちる前にしおれて処分されるでしょうし、庭や野山の百合が落ちる場面を目にすることも稀な偶然です。百合にかぎらず、花が散る、落ちる瞬間を目にすることは実は稀なことで、ゆえに、散る桜に心ひかれるのかもしれません。掲句は、実景嘱目ではなく、虚構でしょう。それゆえ、読む側も自由に場を設定して楽しませていただきます。たとえば、お見合いの席で緊張している二人の会話はちぐはぐでかみ合わない。そのとき、今まで目に入ることもなかった床の間の白い百合の花弁が落下傘のようにゆっくりひらりと舞い落ちる。敏感になっている二人は、波紋のように広がるスローテンポの風を感じ、たがいに百合の匂いにつつまれる。ぎこちなかった二人が微笑し合う。ちょっと乙女チックに夢想しすぎました。なお、掲句は、「風人句会・十周年記念合同句集」(2002)所載。以下、作者のあとがきから抜粋します。「風人句会の良さは、なんといっても師匠のいないことでしょう。ひとりひとりが師匠であり、同時に弟子でもある。(略)師匠がいない良さは他にもあります。それはいろいろな俳人を師匠にできること。おかげで私ものびのびと俳句を作ってきました。(略)今日も私は『たんぽぽのぽぽのあたり』を探しているのです。」(小笠原高志)


May 2552013

 薔薇呉れて聖書貸したる女かな

                           高浜虚子

きい朱色の折り鶴が描かれた表紙を開くと写真が載っている。喜壽の春鎌倉自邸の庭先にて著者、とあるその表情は穏やかだがちょっと不機嫌にも見え、男物にしては華奢な腕時計をした手首に七十七歳という齢が確かに感じられる。そんな『喜壽艶』(1950)の帯には、喜壽にして尚匂ふ若さと艶を失はぬ永い俳句作品の中から、特に艶麗なる七十七句を自選自書して、喜壽の記念出版とする、と書かれている。掲出句、自筆の句の裏ページの一文に「ふとしたことで或る女と口をきくやうなことになつた。その女は或とき薔薇を剪つてくれた。そしてこれを讀んで見よと云つて聖書を貸してくれた。さういふ女。」とある、さういふ女、か。薔薇を剪ってくれた時にあった仄かな気持ちが、聖書を読んでみよと手渡された時、やや引いてしまったようにも感じられるが、明治三十二年、二十六歳の作ということは、五十年経っても薔薇の季節になると思い出す不思議な印象の彼女だったのだろう。(今井肖子)




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