阪神、あれよあれよの敗戦。そうそう野球はうまく行かない。(哲




2013ソスN5ソスソス21ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 2152013

 万緑のなかを大樹の老いゆけり

                           佐藤たけを

歩コースにある鬼子母神の大銀杏は、黄落はもちろん見事だが、この時期の姿もことのほか美しい。幹はいかにも老樹といった風格ではあるが、その梢から無数に芽吹く若葉青葉は若木となんら変わりなく瑞々しく光り輝く。万緑には圧倒されるパワーを感じるが、掲句によって、その雄々しく緑を濃くする新樹のなかに老木も存在することにあらためて気づかされる。屋久杉やセコイヤなどの木の寿命は数千年に及ぶというから、100歳で長寿という人間から見ればほとんど不老不死とも思える長さだ。鼠も象も一生の心拍数は同じといわれるが、もし大樹に鼓動があるとしたら、どれほどゆっくりしたものになるのだろうか。今度幹に手のひらを当てるときには、きっとゆっくりと打つ心音に思いを馳せることだろう。青葉若葉に彩られ、大樹はまたひとつ、みしりと樹齢を重ねてゆく。〈一斉に水の地球の雨蛙〉〈うつくしき声の名のりや夏座敷〉『鉱山神』(2013)所収。(土肥あき子)


May 2052013

 三十分のちの世恃む昼寝かな

                           加藤静夫

者によっては、大袈裟な句と受け取る人もいるだろう。「三十分のちの世」などと言っても、「現在の世」とほとんど変わりはないからである。たまには三十分の間に大きな地震が起きたりして、世の中がひっくり返るような騒ぎになるかもしれないが、そうした事態になることは稀である。私たちは三十分どころか二十四時間後だって、今と同じ世の中がつづくはずだと思っている。今も明日の今頃も、ずうっと先の今頃も、世に変わりはないはずだと無根拠に信じているから、ある意味で安穏に生きていけるのだ。しかし、だからこそ、なんとか三十分後の世が変わってくれと恃(たの)みたくなる気持ちの強くなるときがある。たとえば私などは原稿に切羽詰まったときがそうで、どうにも書きようがなく困り果てて、ええいままよとばかり昼寝を決め込むときがある。まさに三十分後の世に期待をかけるわけだが、たまには思わぬアイディアが湧いてきたりして、効果があったりするのだから馬鹿にできない。でも、よくよく考えてみれば、この効果は「世」が変わった結果ではなく、自分自身が変わったそれなのだけれど、ま、そのあたりは物は考えようということでして……。『中肉中背』(2008)所収。(清水哲男)


May 1952013

 猫一族の音なき出入り黴の家

                           西東三鬼

和三十五年の作品です。三鬼は、昭和二十三年に大阪女子医大病院歯科部長に就任し、同三十一年辞職、神奈川県三浦郡葉山に転居し、同三十七年、胃がんで亡くなるまで、晩年の六年間を専門俳人として生きます。掲句を作ったとき、すでに病を得て病床に伏しがちだったなら、実景写生の句でしょう。病床の視点と猫の視点はほぼ同じ高さ20 cmくらい。猫たちは、葉山の港で魚をあさり、たらふく食べて、黴くさい病人が伏している家に寝に帰る。しかし、そんな作者の背景を知らずに読むと、江戸川乱歩の幻想譚のような妖しい世界に引きずられていきます。掲句は七七五の破調です。この調べが、低い視点がソロソロ続くピアニシモをかすかに奏でているようです。「猫一族」というからには、親子、兄弟、祖父母等の大家族、少なくとも五匹以上の一族でしょう。字余りも、一族の多さを含意しています。この五匹以上の猫一族が、時折、出入りする。時には隊列を組んで、順番に入ってくる。この様子を形容する言葉がみつかりません。壮観というスケールではなく、賑やかという音もなし。猫は、静かなる生き物です。猫の歴史は、ヒトが農耕を始めた歴史と重なります。穀類を狙うネズミの天敵として飼われ始め、げんざいは、家族の一員として愛されています。ペット化された猫でも、いまだ、その野生味は失われていません。気ままに外出し、体の三倍以上のジャンプを見せます。人に飼われていようとも、そのマイペースな生態は、人の暮らしの中に完全には従属しない、種の矜持があります。身長20cmの視点を連ねて、ソロソロソロソロ出たり入ったりする猫の館。掲句は、地上20cmの幻想譚として読むこともできます。加えて、「黴の家」のにおいがつたわってくるところに、人の世界とは別のもう一つの世界が実在することを示してくれています。『西東三鬼集』(1984・朝日文庫)所収。(小笠原高志)




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