何も手入れしてないけど、毎年庭で赤い薔薇が咲く。逞しいなあ。(哲




2013ソスN5ソスソス13ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 1352013

 糸底にサンドペーパー緑さす

                           ふけとしこ

い間茶碗などを買ってないから、すっかり忘れていた。新しい陶器類を求めると、糸底がざらついているものがあって、そのまま使うとテーブルを傷つけたり、重ねた他の食器を引っ掻いてしまうことがある。「糸底」とは「本体をろくろから糸を使って切り離すところから」陶器の底を言う。「糸尻」とも。そのざらつきを滑らかにするために、サンドペーパー(紙やすり)で糸底を磨くのである。気の利いた店ならば買ったときに磨いてくれるが、句の場合はどうだったのだろうか。「緑さす」とは若葉影が映ることだから、新緑の美しい屋外の陶器市での情景かもしれない。いずれにしても、真新しい陶器の肌に若葉の色彩が微妙に写り込んで細かく揺れている。もうそれを見ているだけで、「夏は来ぬ」の清々しくも初々しい感情がわいてくるのである。「ほたる通信II」(2013年5月)所載。(清水哲男)


May 1252013

 おもいきり泣かむここより前は海

                           寺山修司

983年5月4日。寺山修司が逝ってから三十年が経ちました。俳句、短歌、詩、脚本、劇団主宰、映画監督、競馬評論、批評。「ぼくの職業は寺山修司です。」このマルチ表現者の出発が俳句であったこと、そして、寺山の句作は十五歳から十九歳の間に限られ、「二十歳になると、憑きものが落ちたように俳句から醒めた」事実はランボーのようです。掲句は無季ですが、昭和27年1月刊の自選句集「べにがに」所収なので、青森の冬の海を情景としているのかもしれません。しかし、俳句は読み手のものでもあるので、それぞれの場所の好きな季節をイメージして読んでいいと思います。私は、波打ち際、砂と海、人と海、といった境界に着眼します。これは、人間と自然という境界でもありながら、人の流す涙が、あたかも川の流れのように海に注いでいく情景です。波打ち際に立って泣くとき、心に流れる泪川は瞳という河口から海へ注いでいく、そこに浄化作用(カタルシス)を感じていく。十七歳の寺山には、そんな思いがあったかもしれません。後年、寺山は、自身の少年時代の句作について、「一連の句に共通しているのは翳りのなさである。それは、私の単独世界であるよりは、『少年の世界』の一般的な表出にすぎなかった」と自己省察しています。つづけて、「それでも、そこにはまさしく私のアリバイがあったような気がするから不思議なものである。青森の田園の片隅にとりのこされた一人の少年は、いまも『次の一句』を思いうかべて瞑想にふけっていることだろう。そして、彼をおいてけぼりにしてきた、もう一人の私だけが年をとり、豚箱入りし、離婚をしたり、賭博や酒に耽溺したりしてきたのである。」これは、映画『田園に死す』で、坊主頭の中学生の私と映画監督になった私とが、田圃の中で将棋を指している一シーンに重なります。『寺山修司俳句全集』(1986)所収。(小笠原高志)


May 1152013

 新緑やのけぞる喉に日のまだら

                           榎本 享

休の中頃、水の広がるひたすら広い公園で一日を過ごした。新緑の中で心地よい時間だったが、日の暮れかける頃に不思議な疲れを感じたのは、終日ひんやり渡っていた強めの風のせいかもしれない。明るいけれど不安定な五月だが、この句の新緑は、もう少し夏を実感できる頃合だろう。のけぞる、なのだから、上を向いている。ただ新緑を仰いでいて、そこに木洩れ日がゆれ動いているというだけでは、のけぞる、が強すぎるだろう。ひと休みして、ごくごくと水を飲んでいる喉だとすれば、日のまだら、に滲んで光る汗が見えて、景色が動き出す。『おはやう』(2012)所収。(今井肖子)




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