「八十八夜の別れ霜」と言うが、今年はまだ少し寒い朝が続きそう。(哲




2013ソスN5ソスソス2ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 0252013

 ウーと出てマンボと続く潮干狩

                           佐山哲郎

ういう俳句の良さを伝えるのは難しい。まず「ウー、マンボ!」とマラカス両手に軽快に身体を揺する曲の出だしを知らないと、このワクワク感が読み手に伝わらないだろう。頭の中で鳴り響くマンボのリズムにのって熊手とバケツを提げ、ズボンをまくり上げて海に入ってゆく。開放感にあふれた気分に青い海と空が眩しい。映画の1シーンとして背後にこの曲を流してみれば昔懐かしい日本映画と言った雰囲気。これから潮干狩りを思うたび私の中ではこの曲が流れそうである。「マンボ五番「ヤア」とこどもら私を越える」川柳の中村富二の句にあるが、こちらも同じ曲を主題にしていると考えられる。いずれもレトロな昭和の記憶を引き出す句である。『娑婆娑婆』(2011)所収。(三宅やよい)


May 0152013

 砂けむる大都の空の鯉のぼり

                           田村泰次郎

の時季列車の窓から、その土地その土地でのんびり空高く泳いでいる鯉のぼりを眺めるのは心地良い。思わず見とれてしまう。土地によって景色もそれぞれ違うわけだから、窓辺でのどを潤すビールも一段とおいしく、うれしいものに感じられる。都会で隣接した家の鯉のぼりを、四六時中見せつけられるのはあまりありがたくはないし、うれしい気持ちはいつまでもつづくものではない。掲句は中国からの黄砂とは限らないけれど、舞いあがる砂けむりのなかで、大きな口をあけて泳ぐ鯉のぼりは哀れである。(「江戸っ子は五月(さつき)の鯉の吹き流し、口先だけで中はからっぽ」→関係ないか。)しかも大都だから、当時のこととはいえ背景は初夏の緑というより、ビルの林立する都会の味気ない背景が想像される。今や、大都はコンクリートで固められてしまって、砂けむりもそんなに舞いあがらない。そういう空で泳ぐ鯉のぼりこそ哀れか? 初夏の空で果敢に泳いでいる鯉のぼりに、泰次郎は眼を細め、改めて大都にもめぐってきた季節をとらえている。今や、♪ビルより低い鯉のぼり……である。泰次郎の他の句に「たちまちにひらいてゐたり夜の薔薇」がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


April 3042013

 落椿しばらく落椿のかたち

                           斉田 仁

花を称するには「散る」が一般的だが、椿だけは「落ちる」という。花のかたちが似ている椿と山茶花も、花の終わりで容易に区別ができる。花弁が一枚ずつはらはらと散る山茶花に対して、椿は花冠と雄蕊ごと落ちる。そして根元の部分が重いため、椿はどれも花を見せるように仰向けに落下する。そこが土でも、草でも、石の上でさえも、かたくなに天を向いて落ちる。そう痛んだ様子も見せず、黄金色の蕊をきらめかせながら、それはまるで地から咲いた花のような、不思議な美しさを湛えている。椿は固いつややかな葉で覆われているため、実際の花数は見た感じよりずっと多いことから、樹下が深紅の椿で敷き詰められているような幻想的な景色に出会うこともある。また、江戸時代に描かれた『百椿図』は、ありとあらゆるものに椿を取り合わせた絵巻物だ。どれも花を生けるというより、配置されているように見えるのは、やはり落ちた椿に抜き差しならぬ美を見出していたからだろう。〈朧夜は亀の子束子なども鳴く〉〈シャボン玉吹く何様のような顔〉『異熟』(2013)所収。(土肥あき子)




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