連休を前に忙しいが、一日に原稿二本をこなす体力はなくなった。(哲




2013ソスN4ソスソス24ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

April 2442013

 わが鬱の淵の深さに菫咲く

                           馬場駿吉

なき人は幸いなるかな、である。特に春は誰しも程度の差はあれ、わけもなく時に心が落ちこんでしまうことがあるもの。「春愁」などという小綺麗な言葉もあるけれど、春ゆえの故なき憂鬱、物思いのことである。その鬱の深さは他人にはわからないけれど、淵の深さを示すがごとく、底にわずかな菫がぽつりと咲いているようにも感じられる。咲いた菫がせめてもの救いになっているのだろう。深淵に仮にヘビかザリガニでも潜んでいたとしたら、ああ、救いようがない。掲句の場合、可憐な菫が辛うじて救いになっているけれど、逆に鬱の深さを物語っているとも言えよう。駿吉は耳鼻科医で、造耳術の研究でも知られる。独自な美を探究する俳人であり、美術評論家としても、以前から各界人との交遊は多彩である。俳句は「たった十七音に口を緘(と)じられた欲求不満」である、と書く。他の句に「大寒の胸こそ熱き血の器」がある。句集に『薔薇色地獄』『耳海岸』などがある。菫の句は漱石の有名な句もさることながら、渡辺水巴の「かたまつて薄き光の菫かな」もいとおしい。「太陽」(1980年4月号)所載。(八木忠栄)


April 2342013

 桜貝入る拳を当てにけり

                           滝本香世

つの頃からか、どこの海岸に行ってももっとも美しい貝をひとつを選んで持ち帰っている。集めた貝殻を地図の上に置いていけば、いつか日本の輪郭をなぞることができる予定である。桜貝はニッコウ貝科の一種をいうようだが、桜色の二枚貝を総称する。波打ち際に寄せる貝のなかでも、水に濡れた薄紅色はことに目を引き、ひとつ見つければ、またひとつ、と貝の方から視界に飛び込んでくる。掲句の光景はしばらく波とたわむれていた子どもがあどけない声で問うているのだろう。うららかな春の日差しのもとで、繰り返されるおだやかなひとときだ。小さな掌に隠れるほどの貝が一層愛おしく、淡い色彩も、欠けやすいはかなさも、すべてが幸せの象徴であるかのように感じられる。「どっちの手に入っているか」と、突き出す濡れた指先にもまた桜貝のような可愛らしい爪が並んでいることだろう。「ZouX 326号」所載。(土肥あき子)


April 2242013

 丹念の畔塗死者の道なりし

                           古山のぼる

した田んぼに水を引いて、いわゆる代掻きを行うが、その水が抜けないように泥で畔を塗り固めてゆく。毎春決まり切った仕事なのだが、今年の春は気持ちがちがう。寒い間に不祝儀があって、この畔をしめやかに柩が運ばれて行ったからである。故人を思い出しながらの作業には、おのずからぞんざいにはできぬという心持ちがわいてくる。ていねいに、丹念にと、鍬先へ心が向けられる。村上鬼城の「生きかはり死にかはりして打つ田かな」が実感として迫ってくる。余談めくが、畔塗りの終わった田んぼをあちこち眺めてみると、塗る技術にはやはり歴然とした巧拙の差があって、なんだか痛ましく見えてしまう畔もあったりする。子供の時にそんな畔を見かけては、手仕事の不器用な私は、大人になって畔塗りをしなければならなくなったら、どうしようかと内心でひどく気になったものだった。『現代俳句歳時記・春』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)




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