大型連休を控えて、私のようなものでも今週は忙しい。(哲




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April 2142013

 孫と居て口数多し葱坊主

                           春藤セイコ

しぶりに、帰省した孫に会いました。うれしい気持ちで、おのずと口が動きます。葱坊主は晩春の季語です。てっぺんに白い小さな無数の花が集まって、球状に見えるかわいらしい姿に、孫を重ねているのかもしれません。句集では、掲句の前に「茶を啜るジーパンの膝に桜餅」があり、祖母は孫に東京の学生生活のことなどを尋ね、孫は桜餅を食べ茶をすすりながらこたえている、そんなゆったりした時間が流れています。作者は、明治四十年に徳島で生まれ、同県小松島で活躍した俳人。孫を詠んだ句はほかに「帰省の子万年床に陽は高し」。祖母の目から見る孫は、いつまでも葱坊主であり、それでいてジーパンをはく現代青年であり、祖母は、お天道様のように万年床に惰眠を貪る姿を見守る存在です。なお句集には、「亡き夫の五十回忌や吾が遅日」「懐手父懐かしく夫恋し」があり、早くに夫と死別していることがわかります。また、「親の墓子の墓参り日暮れけり」からは、子とも死別していることがわかります。亡き人は帰りません。しかし、掲句には、その孫が子が帰省して目の前にいます。口もとは、おのずとゆるむでしょう。『梅の花』(1997)所収。(小笠原高志)


April 2042013

 蟇ないて唐招提寺春いづこ

                           水原秋桜子

いづこ、について秋桜子自身が「感傷があらわに出すぎていけないと思っている」と、その著書『俳句になる風景』(1948)で述べている掲出句、水原春郎著『秋櫻子俳句365日』(1990・梅里書房)の四月二十日の一句である。ただ、作者は日記の類は嫌いだったということなので、この日に作られたとはかぎらない。蟇は夏季だが、鳴き始めるのは春であり、前出の自著の自解に「山吹のほかに何ひとつ春らしい景物のない講堂のほとりを現わし得ているつもり」とあるので、春を惜しんでいるのだろう。唐招提寺春いづこ、強い固有名詞と詠嘆、ふつうなら上五はさらりと添えるような言葉にするところ、蟇ないて、とこれも主張している。一見ばらばらなようでいて、上五中七の具体性が、感傷をこえた深い心情を感じさせる。(今井肖子)


April 1942013

 雁帰る攫はれたくもある日かな

                           大石悦子

あ、女性の句だなあと思う。作者が男性ならちょっとがっかりするかもしれない。でももし男性であっても病床にある人なら納得するかもしれない。攫ってくださる対象が異なるだけだから。僕は俳句には真実性が大切で真実か否かは必ずどこかで作品から滲み出すのが秀句の条件だと信じているので、仮に作者名を伏してもこの句が健康な男性の句である可能性は少ないと思うのだ。この句に表れる女性性は橋本多佳子や桂信子のそれと比べると似ているようで違う。多佳子なら攫われたしとはっきり言うだろうし、信子ならこう言わないでもう少し男と間合いを置いた表現にしそうな気がする。悦子さんの時代性は「も」にある。攫われたしというところまで受身に徹し切れない。徹することの気恥ずかしさがあるのかもしれないし、かといって攫われたいなどと言うことでの自らの女性性を認めたくないと肩肘張るわけでもない。「も」がこの方の時代性だと思うのだ。『平成名句大鑑』(2013)所載。(今井 聖)




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