腰を診てもらったら、初期の腰部脊柱管狭窄症。老化現象ですな。(哲




2013ソスN4ソスソス19ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

April 1942013

 雁帰る攫はれたくもある日かな

                           大石悦子

あ、女性の句だなあと思う。作者が男性ならちょっとがっかりするかもしれない。でももし男性であっても病床にある人なら納得するかもしれない。攫ってくださる対象が異なるだけだから。僕は俳句には真実性が大切で真実か否かは必ずどこかで作品から滲み出すのが秀句の条件だと信じているので、仮に作者名を伏してもこの句が健康な男性の句である可能性は少ないと思うのだ。この句に表れる女性性は橋本多佳子や桂信子のそれと比べると似ているようで違う。多佳子なら攫われたしとはっきり言うだろうし、信子ならこう言わないでもう少し男と間合いを置いた表現にしそうな気がする。悦子さんの時代性は「も」にある。攫われたしというところまで受身に徹し切れない。徹することの気恥ずかしさがあるのかもしれないし、かといって攫われたいなどと言うことでの自らの女性性を認めたくないと肩肘張るわけでもない。「も」がこの方の時代性だと思うのだ。『平成名句大鑑』(2013)所載。(今井 聖)


April 1842013

 寝ぶそくの日や輝きて木の芽と鳩

                           八田木枯

田木枯少年句集には作者が10代の頃からの作品が収録されている。昭和初期若い俳人は俳句の世界で早熟な才能を現していた。昭和30年代の俳句の頂点ともいえる時代を支えたのは10代の頃より俳句を作り始めた俳人たちだった。石田波郷、三橋敏雄、伊丹三樹彦、みな10代で代表作といえる俳句を生み出している。俳句が若者と老人の文学と言われる由縁がそこにあるのかもしれない。さて掲句であるが、年を重ねると夜更かしするにも体力がなくなり翌朝はひたすら身体がだるいだけだが、緑のつやつやした葉っぱを噴きだす木の芽と鳩ばかりでなく寝ぶそくの若い肉体も季節のただ中で息づいている。私などは若い頃はひたすら自分の若さが疎ましかったが、この句集に収録されている句の数々は、若い時期にしかできない表現を俳句で定着させようとする意欲が感じられる。昨年逝去した俳人をしのぶ貴重な句集だと思う。『八田木枯少年期句集』(2012)所収。(三宅やよい)


April 1742013

 春眠や頭の中に馬の声

                           藤原龍一郎

眠は快い眠りであり、所在なくいつまでもうつらうつらしていたい。どっぷりとした深い眠りではなく、ぬるい眠りである。「馬の声」とは嘶きのことであろう。それを敢えて「馬の声」としたところがおもしろい。馬の声をあたりまえに耳で聞いているのではなく、「頭の中」に声があるというところに、この作者らしい工夫が感じられる。鼻息荒い「馬の声」ではなく、春だからおそらく穏やかなのであろう。穏やかな嘶きが、快く眠っている頭の中を行きつ戻りつしているのかもしれない。「駄句駄句会」(宗匠:山藤章二)で投句された一句である。句会の席では「馬の声」ではなく、「お侍」や「カトちゃん、ぺ」「犬の声」がいいなどと、他の人たちから勝手な意見が出たようだが、龍一郎は「『頭の中に』と言っちゃうと、下に何が来ても想像してくれる、という利点がありますね」と説いている。宗匠が思わず「ユニー句」とうなったようだ。龍一郎は歌人だが、俳句(俳号:媚庵)をはじめ、落語評論、ラジオ番組のディレクター、出版、電脳日記ほか、幅広く活躍しているユニークな才人。他に「湯たんぽを足で探るや四畳半」を別な時に投句している。歌集に『花束で殴る』『楽園』などがある。「駄句ばかり集めた本」と宗匠が自称する『駄句たくさん』(2013)所載。(八木忠栄)




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