もうコートはしまっても大丈夫かしらん。と思いつつぐずぐずしてる。(哲




2013ソスN4ソスソス15ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

April 1542013

 竹秋や盛衰もなきわが生家

                           山田弘子

先になると、竹の葉は黄ばんでくる。地下の筍に養分を吸い取られるせいだ。この現象を、他の植物の秋枯れになぞらえて「竹の秋」と言う。枯れた葉がみな散ってしまい丸裸になるような植物に比べれば、竹の秋の変化などは盛衰とは言えぬほどのそれである。同じように、竹やぶを控えたわが生家も、ほとんど何事も起こることなく、長い時間を経過してきた。いつ来て見ても、昔のままのたたずまいであり、住んでいる家族も変わらない。そんな情景をそのままに詠んだ句ではあるが、作者の内心には盛衰のない生家にも、いつかは大きな変化が訪れることを不安に思う気持ちがあるような気がする。今後、「盛」はないかもしれないけれど、いつの日かの「衰」は避け難いだろう。この春はひとまず安泰の生家を見つめながら、作者の心境にはおだやかだけとは言いきれないところがありそうだ。『彩・円虹例句集』(2008)所載。(清水哲男)


April 1442013

 寝ころんで蝶泊らせる外湯哉

                           小林一茶

防備で、無邪気。天真爛漫、春爛漫。生まれたまんまの姿で、春の空を眺めながら湯にひたり、我が身を蝶の宿にする。粋で自由。一度でいいから、こんなシチュエーションに身を置きたいものです。掲句は前書に「道後温泉の辺りにて」とあり、注釈に、寛政七年(1795)春の即興吟とあります。一茶三十二歳。ご存知のように、一茶は十五歳で故郷北信濃の柏原を出てから五十一歳で帰郷するまで、江戸、西国などを転々として流寓生活を送りました。その半生の中で培われた感覚は、例えば「夕立や樹下石上の小役人」といった人間界の権威に対する皮肉に表れ、一方で、「やれ打つな蝿が手をすり足をする」があります。この句について、昨年『荒凡夫一茶』を上梓された金子兜太氏は、「これは学校の先生が教える慈悲の句ではなく、本当の意味でリアルな、写生の句である」と述べています。「おそらくは、蠅よ、お前は脚を磨いておるなあ、まあ、ゆっくりやってくれやい、と見たままを詠んだ句です。」金子氏は、一茶の句に「生きもの感覚」をみいだしていますが、掲句も同様に、人間界よりも広くおおらかなくくりの自然界に身をひたし、空と湯と蝶と我が身を一体にする一茶の無邪気を読みます。『日本古典文学大系58・一茶集』(岩波書店)所収。(小笠原高志)


April 1342013

 霾天の濃きがうすきに動きくる

                           近藤美好女

和九年の作なので混じりけのない?黄沙、それも相当本格的である。これを書いている今日、気象庁の黄沙情報図を見ると、北海道の一部を除いて日本列島全体が黄色く覆われているが、窓から見える東京の空は白く霞んでいて薄曇り、あまり実感はない。掲出句、濃きがうすきに、の漢字とひらがなに黄沙の色の違いがよく見えて、二つの助詞が遠近感をはっきり表している。そして、霾天の、と大きく表現することで、頭上に広がる空の彼方からより濃い砂埃がゆっくりと押し寄せてくる光景が目に浮かび、むずむずぞわぞわ恐ろしい。この句を引いた『ホトトギス雑詠選集 春の部』(1987・朝日新聞社)の作者の地名欄は、黄海道。朝鮮半島の中ほどの地と知れば、黄沙の臨場感も肯ける。(今井肖子)




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