アナウンサーが立って伝えるニュース番組があるが、落ち着かない。(哲




2013ソスN4ソスソス12ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

April 1242013

 花茣蓙やいたこに渡す皺の札

                           柏原眠雨

寄せともいうイタコは死者の声を伝える職業だ。どうしても死者に会いたいとき、声を聞きたいときに人はイタコを訪れる。花茣蓙に坐っているのはイタコとその客の両方だ。亡くなった人にどうしても聞いてみたいことってあるような無いような。もう絶対聞けないってのが科学的常識だからそんなことはハナから諦めるんだろうな、ふつうは。真実は墓場までもっていくと公言してそのとおり沈黙したまま亡くなった政治家や右翼の大物がいた。永久に明るみに出ない国家間の密約など政治の大悪事がゴマンとあるような気がする。そんなのも当人を呼び出して聞いてみたい。死者を呼び出すにも金がいる。地獄の沙汰も金次第というが、イタコにも生活がある。『平成名句大鑑』(2013)所載。(今井 聖)


April 1142013

 まっさらなノートを下ろす花の雨

                           陽山道子

も書いていないまっさらなノートの1ページ目を開いて書き始めるのはいつでも少し緊張する。学生時代友達のノートを借りて、余白の白も清潔に整然と並んだ几帳面な文字列に圧倒された思い出がある。私の場合いつだって綺麗に使おうと思って書き始めるのに、2ページ、3ページと使ううち乱雑になってゆく字と無原則な書き込みにノートはボロボロになっていった。使うことと汚すことが同義であるような私にとっておろしたてのノートはいつだってまぶしい存在だ。掲句は目の前に開くまっさらなノートと柔らかに降り続ける花の雨の取り合わせが素敵だ。ノートと同様、これから始まる新しい学年、新しい学校での生活に初々しく緊張している心持が想像される。白いページに字を記していく後ろめたいような、もったいないような気持ちが花びらを散らす雨の情感に通じるようだ。せめて、しめやかに花を散らさぬよう降っておくれ、花時の雨ほど降り方が気にかかる雨はない。『おーい雲』(2012)所収。(三宅やよい)


April 1042013

 花屑をさそひし雨の一と流れ

                           永井龍男

年の桜は早かったから、掲句は今やタイミングがずれているということになるかもしれない。例年だったら「花屑」は今頃のタイミングなのではないかと思われる。咲き誇って人々を楽しませた花も、今は地べたに散ってしまって、あわれ「花屑」となってしまった。「屑」になっても花は花、桜の花びらは散ってもどこかしら華やいでいる。また、それだけにあわれも感じられる。ここでは川面をゆったり流れる花筏ではなくて、地べたの凹んだ箇所を流れる雨が、散った花びらを集めて一筋に押し流している。花筏とはちがった風情をつくり出している。「さそひし」がみごとな表現として効いている。龍男は文藝春秋に勤めていた頃、よく社員句会を開いたし、文壇句会にも熱心に出席して、その小説同様に味のある俳句をつくった。「小説を書いているときに句はできない。小説にはもっと濁ったものがある」と語った。「濁ったもの」か、なるほどそうしたものであろう。俳号は東門居。『阿呆らしき俳句』『文字の積木あそび』などの俳壇批判が注目された。ほかに「われの来し径か花敷く夕まぐれ」など。「太陽」(1980年4月号)所載。(八木忠栄)




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