円安のせいで、まずティッシュが値上がりする。その次は何だろう。(哲




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April 1142013

 まっさらなノートを下ろす花の雨

                           陽山道子

も書いていないまっさらなノートの1ページ目を開いて書き始めるのはいつでも少し緊張する。学生時代友達のノートを借りて、余白の白も清潔に整然と並んだ几帳面な文字列に圧倒された思い出がある。私の場合いつだって綺麗に使おうと思って書き始めるのに、2ページ、3ページと使ううち乱雑になってゆく字と無原則な書き込みにノートはボロボロになっていった。使うことと汚すことが同義であるような私にとっておろしたてのノートはいつだってまぶしい存在だ。掲句は目の前に開くまっさらなノートと柔らかに降り続ける花の雨の取り合わせが素敵だ。ノートと同様、これから始まる新しい学年、新しい学校での生活に初々しく緊張している心持が想像される。白いページに字を記していく後ろめたいような、もったいないような気持ちが花びらを散らす雨の情感に通じるようだ。せめて、しめやかに花を散らさぬよう降っておくれ、花時の雨ほど降り方が気にかかる雨はない。『おーい雲』(2012)所収。(三宅やよい)


April 1042013

 花屑をさそひし雨の一と流れ

                           永井龍男

年の桜は早かったから、掲句は今やタイミングがずれているということになるかもしれない。例年だったら「花屑」は今頃のタイミングなのではないかと思われる。咲き誇って人々を楽しませた花も、今は地べたに散ってしまって、あわれ「花屑」となってしまった。「屑」になっても花は花、桜の花びらは散ってもどこかしら華やいでいる。また、それだけにあわれも感じられる。ここでは川面をゆったり流れる花筏ではなくて、地べたの凹んだ箇所を流れる雨が、散った花びらを集めて一筋に押し流している。花筏とはちがった風情をつくり出している。「さそひし」がみごとな表現として効いている。龍男は文藝春秋に勤めていた頃、よく社員句会を開いたし、文壇句会にも熱心に出席して、その小説同様に味のある俳句をつくった。「小説を書いているときに句はできない。小説にはもっと濁ったものがある」と語った。「濁ったもの」か、なるほどそうしたものであろう。俳号は東門居。『阿呆らしき俳句』『文字の積木あそび』などの俳壇批判が注目された。ほかに「われの来し径か花敷く夕まぐれ」など。「太陽」(1980年4月号)所載。(八木忠栄)


April 0942013

 雨音を連れ恋猫のもどりけり

                           永瀬十梧

と雨とはゆかりが深い。よくいわれる「猫が顔を洗うと雨」は、湿り気を嫌う猫がヒゲをしごく動作で、個体差はあるものの実際に湿度が高い日や低気圧が近づいているときに頻繁に見られる。確かにわが家で飼っていた猫も、雨の日にぐいぐいと顔をこすりつけにくることがあった。あれはきっと人間の衣服で湿気を拭っていたのだろう。掲句では、下り坂となる天気の気配を感じつつも、いさましく出かけていった猫が、いよいよ雨がぱらつき始めたとき、やむをえず志半ばで引き上げてきたのだ。ガラスに伝う雨粒を恨みがましく眺めながら、いかにも不満気な様子が続いて見えるようだ。さらには恋の首尾さえ愚痴っているようにも思えてくる。それにしても、本能にまかせながら、人間と折り合って暮らす猫とは面白い生きものだ。先週末は西日本、東日本ともに大荒れの天気となり、すっかり桜も散ってしまった。きっと日本中の猫が一斉に顔を洗っていたことだろう。〈花過ぎのしづかな空を川流れ〉〈さへづりのあたりきらきらしてゐたり〉『橋朧ーふくしま記』(2013)所収。(土肥あき子)




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