April 092013
雨音を連れ恋猫のもどりけり
永瀬十梧
猫と雨とはゆかりが深い。よくいわれる「猫が顔を洗うと雨」は、湿り気を嫌う猫がヒゲをしごく動作で、個体差はあるものの実際に湿度が高い日や低気圧が近づいているときに頻繁に見られる。確かにわが家で飼っていた猫も、雨の日にぐいぐいと顔をこすりつけにくることがあった。あれはきっと人間の衣服で湿気を拭っていたのだろう。掲句では、下り坂となる天気の気配を感じつつも、いさましく出かけていった猫が、いよいよ雨がぱらつき始めたとき、やむをえず志半ばで引き上げてきたのだ。ガラスに伝う雨粒を恨みがましく眺めながら、いかにも不満気な様子が続いて見えるようだ。さらには恋の首尾さえ愚痴っているようにも思えてくる。それにしても、本能にまかせながら、人間と折り合って暮らす猫とは面白い生きものだ。先週末は西日本、東日本ともに大荒れの天気となり、すっかり桜も散ってしまった。きっと日本中の猫が一斉に顔を洗っていたことだろう。〈花過ぎのしづかな空を川流れ〉〈さへづりのあたりきらきらしてゐたり〉『橋朧ーふくしま記』(2013)所収。(土肥あき子)
April 082013
花冷の紙芝居屋の弔辞かな
堀下 翔
母を見送ってから一年が過ぎた。火葬場の玄関に、桜の花が散り敷かれていたことを思い出す。人情的に言って、春の葬儀は理不尽に写る。ものみな新しい生命に躍動する季節の死は、なんとなく不自然に思え、納得のいかない思いが残る。句の葬儀は花冷えのなかで行われているので、気温の低い分だけ、死の現実を受け入れやすくなっている。少しは理不尽さが緩和されている。葬儀はしめやかに進行していき、やがて弔辞がはじまった。述べるのが紙芝居屋だと知ったときに、作者の心は少しゆらめいたにちがいない。故人との関係で誰が弔辞を述べようとも構わないわけだが、いつもはハレの場で演じている人がケの言葉をつらねることに、いささかの危惧の念と、そして同時に好奇心を覚えたからである。紙芝居屋の弔辞が果たして芝居がかっていたかどうかは知らないが、人生の微苦笑譚はどこにでも転がっていることに、作者があらためて気づいた句ということになりそうだ。俳誌「里」(2013年4月号)所載。(清水哲男)
April 072013
鯛よりも目刺のうまさ知らざるや
鈴木真砂女
芯のある真砂女の声が届いています。「知らざるや」という言い切りに、軽い怒り、あるいは戒めを聞き取ります。店主をつとめた銀座「卯浪」の常連客に向けた本音のようでもあります。たしかに鯛は、お造りにしてよし、握り、かぶら蒸し、鯛茶漬という贅沢もあり、晴れがましい和食の席には欠かせない食材です。しかし、それらは華美な器に盛られる料理でもあり、実よりも名が勝っているのだ、という声を聞き取ります。ちなみに、食材としてのタイ科の魚はマダイ、クロダイですが、タイの名を冠された別種魚は、ブダイ、スズメダイをはじめとして、数十種類をこえ、これは全国にある○○銀座と同じあやかり方でしょう。ところで、目刺の句といえば、芥川龍之介の「こがらしや目刺しにのこるうみのいろ」が有名です。ただし、芥川の場合は目刺を見ている句なのに対し、真砂女は目刺を食っている。九十六歳まで生きた糧です。目刺は、小イワシを塩水に漬けたあと天日で干したもの。これを頭から骨ごと尾まで食い尽くす。真砂女の気丈はここで養われ、同時に、目刺のように白日に身をさらしてきた天然の塩辛い生きざまと重なります。鯛には養殖物も多く出ていますが、目刺にそれはありません。ほかに「目刺焼くくらし可もなく不可もなく」「目刺焼く火は強からず弱からず」「目刺し焼けば消えてしまひし海の色」「目刺し焼くここ東京のド真中」「海の色連れて目刺のとどきけり」「締切りの迫る目刺を焦がしけり」。いよいよ真砂女が、目刺の化身に見えてきました。『鈴木真砂女全句集』(2010)所収(小笠原高志)
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